コスキン・エン・ハポン記念碑
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福島県川俣町で毎年恒例のフォルクローレ音楽祭『コスキン・エン・ハポン2004』が開催されました。
今年は30周年の記念すべき年でもあり、私たちは去年に続きargentinayjapon取材班とともに川俣町を再訪しました。
argentinayjapon©.
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...10月9日から11日にわたり、150以上のグループが、おなじみのスタンダードナンバーからオリジナルも含め
300曲以上の南米フォルクローレを披露しました。このフェスティバルの名前は、
アルゼンチンのコルドバ州にある山あいの町で、2005年に45周年を迎えるフォルクローレ国民音楽祭の開催地である
コスキン市にちなんで付けられたものです。
残念ながら、本州を北上していた超大型台風22号により初日のオープニングマーチ
(川俣町内を民族衣装をまとった町民の皆さんが行進するオープニングイベント)はキャンセルとなりました。
しかしながら、8日の前夜祭を含め4日間に渡る音楽祭の会場川俣町公民館は、いつも通り、
朝から夜中の12時まで、ギター、ボンボ、チャランゴ、ケーナ、サンポーニャ、エルケなどの楽器が歌声とともに響き渡り、
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川俣中央公民館ホールに飾られた各国の国旗
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それに歓声と拍手が応えるといった調子で、聴衆と全国から集まった参加ミュージ シャンの皆さんの熱気に包まれました。
また、会場内には、国際親善の象徴として、日本国旗を囲むように中南米各国の国旗が掲げられていました。
ダニエル・ポルスキー大使
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…コスキン・エン・ハポン音楽祭は、地域行政・外交関係来賓にも見られる通り、
もはやその高い芸術性以上のイベントになっています。コスキン音楽祭初日には、
駐日アルゼンチン共和国大使のダニエル・ポルスキー氏、駐日パラグアイ共和国大使のイサオ・タオカ氏、
川俣町長の古川道郎氏、衆議院議員の佐藤剛男氏、参議院議員の岩城光秀氏、福島市長の瀬戸孝則氏、
福島県知事の佐藤栄佐久氏といった錚々たる面々による祝辞が披露されました。また、2日間に渡り、
熱気溢れる聴衆に混じってステージを楽しむアルゼンチン共和国領事のカルロス・ルビオ・レイナ夫妻の姿もありました。
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来賓による祝辞の披露
…9日(土)の初日オープニングでは、来賓による祝辞が披露されました。最初にステージに上がったのは、
コスキン・エン・ハポン音楽祭の発起人である長沼康光先生。30周年を振り返り感無量の長沼先生の姿は、
観衆の胸を打つものでした。続いて、古川川俣町長は、「音楽に国境はありません。また、その響きやそれを
奏でる楽器は平和そのものです」と音楽祭への思い入れを語りました。ポルスキー大使は、本場アルゼンチン
のコスキン国民音楽祭の開催宣言になぞらえて、「アキー、カワマタ!」との力強い一言に続き、本場の
コスキン国民音楽祭に日本代表として出場するアーティスト達にとって、コスキン・エン・ハポン音楽祭は
登竜門的な存在となっていること、また日本代表のアーティスト達は、本場アルゼンチンのコスキン
国民音楽祭で高く評価されている南米各国のアーティスト達とともに高い評価を得ていることなどを強調しました。
大使からは更に、本場コスキンから遠く離れた川俣を基点としてフォルクローレ音楽の普及に尽力した長沼先生
を讃えるとのコメントに加え、日本を訪れる中南米のフォルクローレアーティストへの労いの言葉や、
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長沼康光先生
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今や日本で最も重要なフォルクローレ音楽祭となったコスキン・エン・ハポン音楽祭で多くの日本人アーティストに活動
の場を与える努力を惜しまない主催者の皆さんへの賛辞もありました。また、日本生まれで40年ぶりに来日した
タオカ大使は、戦争が頻発するこの世界で、フォルクローレを通じて様々な国に生きる人々の思いを知ることが
出来ることの素晴らしさを実感している、コスキン・エン・ハポン主催者や川俣町民の皆さんのたゆまない努力
は本場コスキンの関係者のそれにも通じるものがある、と話しました。一方、瀬戸福島市長は、
コスキン・エン・ハポン音楽祭の地域振興への大きな期待を込めて、特に川俣の若者達にとってコスキン・エン・ハポン
音楽祭が創造性を育む場であることを喜ばしく思う、と語りました。
一般参加グループ
フォルクローレ三昧!
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…連日のプログラムのオープニングは、長沼先生とその生徒たちによるグループ「アミーゴ・デ・川俣」の
『川俣コスキンマーチ』で幕開けしました。3日間のステージを彩る参加者は、実に、遠方から地元まで老若男女を問わず、
といったもので、主に大学生のフォルクローレ愛好会やベテランフォルクローレ愛好家を中心に、東海、北陸、
関東、東北等からはるばる川俣にやってきました。例えば、南米を訪問したことのあるメンバーもいる家族
3世代による構成のグループ「オロ・チコス・デ・グンマ」。孫の世代の一人はケーナちゃん(漢字表記未詳、
悪しからず)という名前だそうで、家族揃ってフォルクローレに親しんでいる様子が分かります。
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その他、個性豊かなグループばかり。アルゼンチンのコスキン国民音楽祭に出場した新潟出身の
「ロス・コバジアーノス」や、北海道のフォルクローレを引っ提げて登場した3人のギタートリオ
「アンサンブル・アスカ」など。また、音楽のみならずダンスも見逃せません。
「ティエラ・クリオージャ」と「ダンサ・エレンシア」の2つのグループは、アルゼンチンのコスキン民俗音楽祭の
オープニングで「アキー・コスキン!(ここに、コスキン国民音楽祭を開始します!)」の掛け声ともに披露される
『イムノ・ア・コスキン(コスキンのテーマ)』に合わせ、「おいで、奇跡が起きるよ...。
さあコスキンが歌い始める」という観衆を盛り上げる同テーマのお決まりの最後の一節とともに花びらが
飛び舞うという華麗なフィナーレに終わる、軽快かつ華やいだダンスで観衆を魅了しました。また、
お馴染みベテランの「グルーポ・シンコ・パイース」と「ロス・コージャス」はオリジナル曲を演奏、コスキン国民
音楽祭に川俣代表として参加した「ロス・アルームノス」は
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『コスキンのテーマ』
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『ママ・インディア』で故郷に錦を飾り、「マルカ・マヤ」と「グループ・バホ」は、南米がスペイン支配下になる
以前の先史時代音楽を披露しました。
ベテランの貫禄 ロス・コージャス
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…2005年1月にアルゼンチンで行われるコスキン国民音楽祭に出場する、9人の女性グループ「ベル・ビエントス」は、
ボンボ、ギター、ピアノ、カホン、サンポーニャを操りながら、アルゼンチンのシンガーソングライターである
ビクトル・エレディアによる某名曲(来年のコスキン国民音楽祭までのお楽しみ...のはずですのでここでは曲名は
触れませんが、メルセデス・ソーサもカバーしたチャマメです)を、本番に先立ってお披露目しました。
「ラ・ティエラ・エストレジャーダ」は、コロンビアの明るいリズムの『ボゴタの陽の下で』やベネズエラのフォルクローレ
の1種であるホローポの『赤い鷹』等、コスキン・エン・ハポンでは比較的新鮮な
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両国のフォルクローレで観衆を沸かせました。その他、ここで触れていないたくさんのグループが素晴らしい演奏を披露してくれました。
特別招待アーティスト
…コスキン・エン・ハポンの目玉の一つとして、毎年プロのアーティストが招待され、音楽祭を盛り上げます。
今年は、日本でのパラグアイ・ハープ第一人者のルシア塩満、ボリビア・フォルクローレ伝道者の木下尊惇、
ベテランの貫禄満点のグルーポ・カンタティ、日本で活躍するボリビア人ミュージシャンのルイス・カルロス・セベリーチ及び
アルゼンチン人のカルロス・ペレス、そして来日したばかりのラウル・オラルテ、という第一線で活躍する豪華
アーティスト達の一流のステージを観ることが出来ました。グルーポ・カンタティは、20年前のコスキン・エン・ハポンでも
ステージに立ったリーダーを中心に、ボリビアのサンタ・クルース地方の音楽に加え、「美しいアメリカ大陸よ、
永遠なれ!」とのメッセージとともに『メヒコ・リンド』を演奏しました。
…プロ・デビュー当時にコスキン・エン・ハポンに出場したことのあるルシア塩満は、初日9日夜の演奏では、
『カスカーダ(滝)』に始まり、『レホス・デ・ティ(遠くあなたのもとを離れて)』、そしてプロの余裕か偶然会場に
居合わせたアルゼンチン人の観衆に『ミシオネーラ(ミシオネスの女)』を捧げました。
プロでありながらもこういうサービス精神は観衆にとっては嬉しいものです。『カスカーダ』は彼女がコスキン・エン・ハポンで
最初に披露した思い入れのある曲、との説明もありました。そして最後の、まさにそのタイトルの通り秋の感傷的な
気分をほうふつさせる物悲しくも情熱的なメロディーが印象的な『オトーニョ・センティメンタル』での、
彼女の感極まる演奏は、実に観衆の胸を打つものでした。川俣に来ることの出来なかった特別な人に
捧げられたとのことです。彼女の渾身の名演奏に最高潮に達した会場からは、「オートラ!(アンコール!)」
の連呼。ここで、弱冠12歳の時に彼女に出会ったという木下尊惇がギターとともにステージに登場、
息の合ったデュオで、軽快な『ビーノ・ブランコ(白ワイン)』と『トレン・レチェーロ(各駅停車)』を披露、
観衆を大いに沸かせました。
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ルシア塩満 渾身の演奏
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木下尊惇+小林智英によるギター・デュオ
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...ボリビアに10年間在住し、うち4年間を巨匠エルネスト・カブールに師事したという木下尊惇は、
24歳の新鋭ギタリスト小林智英ともに、ギターやチャランゴを自在に操りながら、オリジナル曲のワルツ風の
『紫色の香り』、ガローパのリズムの『お天気雨』を息の合ったデュオで披露しました。また、川の流れに
流転しながら角が取れて丸くなっていく石の営みを巡礼者の歩みに例えたカブールの名曲
『ピエドラス・ペレグリーナス(巡礼者)』で深遠なボリビアフォルクローレの世界を表現した後は、
蚊のユーモラスな動きをギターで見事に再現した『エル・モスキート(蚊)』で観衆を笑いの渦に巻き込むなど、
メリハリを付けた演奏で観衆の心をしっかり掴むプロならではの
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ステージ展開を見せてくれました。続いて、『ラ・ローサ・イ・ボルカン(バラと火山)』、タキラリのリズムの『カチャファース』、
『ソンブレロ・デ・サオ』、
最後は彼にとっての第2の祖国への熱い想いを熱唱する『ビバ・ミ・パトリア・ボリビア(我が祖国ボリビアよ
永遠なれ)』で締めくくりました。木下尊惇は、本場のアルゼンチンのコスキン音楽祭の予選会の呼称から取った
「プレ・コスキン」と呼ばれる8日夜の前夜祭を含め、4日間ステージに登場、観衆の熱狂的な歓迎を受けていました。
グメルシンド・リシディオのモレナーダのリズムの『ラ・マリポーサ(蝶)』で見せた、
観衆の手拍子と足踏みを巧みに誘う演奏も、会場の一体感を見事に演出していました。
...フォルクローレの伝説的グループであるロス・ライカスにかつて属し、今はロス・トレス・アミーゴスのメンバーとして
活躍するルイス・セベリーチは、コスキン・エン・ハポン10周年大会でグルーポ・カンタティと共演しました。
白のポンチョをまとって登場、「私の小さい頃には、人々は、平和・家族・豊作を日々祈ったものです」との
コメントともに『ノスタルヒア(郷愁)』、続いてロス・トレス・アミーゴスの4作目にも収録されている
『フロール・デ・アレリ(アレリの花)』を披露、30周年を迎えたコスキン・エン・ハポンの更なる発展を祈願しました。
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ルイス・C・セベリーチ
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カルロス・ペレス
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...アルゼンチン出身のカルロス・ペレスは、最終日の11日朝に漆黒のポンチョ姿で颯爽とステージに
現われました。見事な指捌きのギターでタンゴの名曲『ラ・クンパルシータ』を演奏、彼を始めプロミュージシャン達の
良き友人でありアルゼンチンフォルクローレの愛好家として知られていた相澤幸男氏(2004年9月死去、享年69歳)
に捧げました。続いて、彼の故郷であるブエノス・アイレス州のリズムのミロンガであり且つ巨匠アタワルパ・ユパンキ作の
『ロス・エヘス・デ・カレータ(幌馬車にて)』、クエーカのリズムで『ラ・アレノーサ(砂埃の故郷)』、アレナーレス作
『ボリビアーナ(ボリビアの女)』、そしてワルツの名曲『キエロ・セール・トゥ・ソンブラ(あなたの影になりたい)』
と得意のレパートリーをギターとチャランゴで披露しました。
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...アルゼンチン出身のラウル・オラルテは、ケーナ奏者として世界にその名を知られています。
アルゼンチンのフフイ州ウマワカ生まれの彼の操るケーナ、シークス、サンポーニャ、アナータ
(カーニバルで使われる高音が良く響く木製のフルート)のマジックは、会場をアンデス山脈を吹き抜ける
風で包み込んでしまいました。カルロス・ペレスとともに登場した彼は、フォルクローレの故郷とも言える
アンデス山脈からはるか遠くの川俣において子供達がフォルクローレを学んでいるのを見て、大きな
感銘を受けたとのことです。演奏は、自作曲『パストールシート(羊飼いの少年)』、ルイス・ラバージェ作
『ケーナケーナ』、
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アルゼンチンのケーナ奏者 ラウル・オラルテ
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アルゼンチン・サンバ(ブラジルのサンバとは別物)のリズムで同じくケーナ奏者のウニャ・ラモス作の手による『アケージョス・オホス・グリーセス(あの灰
色の瞳)』、ペルーの巨匠でアルゼンチンにも長年住み数多くの作品を残したアントニオ・パントーハの作品『エル・シークス(シークスを弾く男)』と続きます
。更に、ケーナの意外なまでの表現力の幅広さを体現するかのような、アストール・ピアソラの名曲『アディオス・ノニーノ』、ジャラビのリズムのオリジナル曲『
ケーナ・デ・ロス・アンデス(アンデスのケーナ)』と物悲しいメロディーが続いた後は、軽快なリズムの『ラ・ミロンガ・デ・ミス・アモーレス(愛しのミロンガ)』、ベ
ネズエラ・フォルクローレの『エル・ディアブリート(小悪魔)』で締めくくりました。最後に、彼は熱っぽく夢を語りました。ウマワカにある彼の生家を音楽学校
にしたい、と。そして、「私の祖国アルゼンチン、そして北部地方の素晴らしい景色に囲ま
れた私の学校に是非お越し下さい」と聴衆に呼び掛けました。
コスキン・エン・ハポンの歴史
...長沼先生として親しまれている長沼康光氏は、1955年、ラジオで初めてアタワルパ・ユパンキの曲『カミーノ・デル・インディオ(インディオの道)』を耳にし
ました。そのメロディーは彼の頭の中にしっかりと焼き付き、これが彼のフォルクローレとの出会いとなりました。
風情のあるコスキン・エン・ハポン第2会場
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その後、レコードを収集する傍ら、東北のフォルクローレ愛好会を集めて「ノルテ・ハポン」を設立、1973年には、友人であるロス・コージャスの
東出氏のケーナを電話で聴き、中南米音楽専門誌の『ラティーナ』の前身である『中南米音楽』を読んで、アルゼンチンのフォルクローレの聖地とも言え
る山あいの町コスキンで大規模なフォルクローレ音楽祭が開催されていることを知るに至ったのです。地球の反対側の一大イベントの存在に勇気付けら
れ、ノルテ・ハポンのリーダーとして1975年10月18日に川俣町の御霊神社の公民館にて第一回コスキン・エン・ハポンを開催、東北のみならず関東・北
陸からの13グループが参加しました。
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...コスキン・エン・ハポン10回目を数えた1984年、ノルテ・ハポンのメンバーのカンパにより、長沼氏は遂にコスキン
訪問を果たしました。そこで、敬愛するアタワルパ・ユパンキと対面、食事をともにし、直筆のサインをもらうなど、
忘れられない思い出を作ることが出来ました。それに匹敵するくらいの感動が、30周年を迎えた今年の
コスキン・エン・ハポンでの冒頭の挨拶でこみ上げて来たに違いありません。30年越しの努力がコスキン・エン・ハポンと
して脈々と続き、更に、若い世代が全国から集い、子供達が遠く離れたアンデスの響きに親しみながら
育っていることを...。
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長沼先生とラウル・オラルテ
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本場アルゼンチンコスキン国民音楽祭より
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コスキン国民音楽祭の歴史
...アルゼンチンのコスキン国民音楽祭の起源は、そもそもアルゼンチンのコルドバ州の山あいにあるコスキン市の
守護神である聖女ロサリオを讃える日に開催されていたお祭りと言われています(コスキンという地名は、
この地域に住んでいた先住民族の言語カミアレ語で「素晴らしい土地」を意味します)。
1950年代にかけてこのお祭りは盛り上がりを見せ、ついに1961年には、全国の各州の代表の
アマチュア・ミュージシャンや一流のプロ・アーティストを招いた上で、伝統的な歌謡・演奏・舞踊を問わずあらゆる
分野のフォルクローレ音楽を集大成とも言える一大音楽祭として大々的に開催されました。
音楽祭の規模は年々大きくなり、メルセデス・ソーサ、チャンゴ・ニエト、ロス・アルタミラーノ、
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ルイス・ランドリスシーナといった往年のベテランから、最近ではソレダーや
ロス・ノチェーロスといった若き新進アーティストまで、現代アルゼンチン音楽界の超一流アーティストたちの多くがここに出演し、
その後大成功を収めていきました。1963年には大統領令により「国民音楽祭」と命名され、その重要性は国境を越えて
認知されるようになり、中南米諸国のみならず欧州や日本からも代表団を受入れるに至りました。
更に、米州機構(OAS)やパリ人類博物館からもその文化的重要性が認められ、後者では、ステージのビデオなど
音楽祭の文化的意義を物語る展示がなされています。一方、コスキン国民音楽祭は、その9日間のステージのみならず、
様々な国々の伝統工芸家たちが集まりその作品(織物、仮面、陶製品)や技術を披露し合う伝統工芸祭、
アルゼンチン人類学会、タンゴを含むフォルクローレ、ダンス、演劇などのワークショップ、高名な詩人達と一般市民の
交流会、更には音楽祭会場周辺で夜通しライブが行われる無数のペーニャ(ライブハウス)など、たくさんの見どころがあります。
...コスキン国民音楽祭は、スタジアム『プロスペロ・モリーナ』で行われます。9日間の音楽祭は、コスキンの空に月が宿る頃、
あの有名な「アキー、コスキン、カピタル・デ・フォルクローレ!
(フォルクローレの聖地、ここコスキンでこれより国民音楽祭が始まります!)」という司会者の宣言とともに、
無数の花火を合図に始まります。
ひとしきり花火に見入った観衆が、巨匠にちなんで『アタワルパ・ユパンキ』と命名されたステージに目を落とすと、
バレー・ダンサーの一団が様々なリズムのコンビネーションで構成される『イムノ・ア・コスキン(コスキンのテーマ)』
に合わせて伝統舞踊を繰り広げます。ダンサーたちの華麗なステージは、会場正面に位置する教会の鐘の音の
響きでフィナーレを迎えます。
連日夜10時にお決まりのこの一連のオープニング・セレモニーが行われた後、様々なアーティストが次々
にステージに登場し、夜空が白み始めるのもお構いなしにノン・ストップで会場を盛り上げます。
一晩のステージが終わった後も、人々は興奮の余韻を楽しみながら眠る時間を惜しむがごとく思い思いに過ごします。
コスキンを流れる川に移動し木陰にある知白砂の川岸で水浴びしたり(そう、南米の1月は夏なのです)、
音楽を楽しんだりします。また、全国からコスキンにやってきたアマチュア・ミュージシャン達は、ステージに上がる日を
夢見つつ、ストリート・パフォーマンスを披露します。2004年、コスキン国民音楽祭は44回を数えました。
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本場アルゼンチンコスキン国民音楽祭より
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司会者の飯田利夫氏
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...話は川俣に戻ります。コスキン・エン・ハポンの草創期から公式進行役を務める飯田利夫氏は力説します。
「アルゼンチンのコスキンがフォルクローレの聖地なら、川俣は偉大なアマチュア・ミュージシャンによるフォルクローレ
の第二の聖地と言っても過言ではありません」と。続けて、「30周年は、更なる発展に向かっての通過点です」
とコスキン・エン・ハポンの今後に大きな期待を寄せながら、主催者のみならず参加者の弛まない努力を訴えました。
また飯田氏は、かつてアルゼンチンのコスキン国民音楽祭を見に行った時の感想として、「渡航前の期待をずっと
大きく超えるものでしたよ」と語ってくれました。
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...更に、アタワルパ・ユパンキを挙げた上で、「彼の取り上げるテーマは、国境を問わない人類に共通するものがあります。
つまり、さすが巨匠と言うべきか、その歌詞にある普遍性に強く魅かれたのです」と、フォルクローレへの熱い想いを語ってくれました。
因みに、日本で活動するフォルクローレ・ミュージシャンとしてコスキン国民音楽祭に出場したアーティストとしては、
ハープ奏者のルシア塩満、ギターリストの瀬賀倫夫、沖縄在住のシルビオ&リンダ・モレーノ夫妻のデュオ・パマルカ、
ギタリストのカルロス・ペレス各氏が挙げられます。もちろん、日本人としての第一人者は、かつて六本木でタンゴ&
フォルクローレのペーニャ『カンデラリア』を経営していた故高野太郎氏でしょう。彼は、アタワルパ・ユパンキの熱心なファンであり、
アルゼンチン東北部のチャコ州出身で漫才師としても有名なルイス・ランドリスシーナからの贈り物として、
音楽祭のステージで馬一頭を受け取ったことでも知られています。
...最後に、コスキン・エン・ハポンが30周年を迎えるまでに至った背景として、日本人が海外の音楽に関心を持っていること、
そして、数多くのアンデス音楽グループを輩出していることからも分かるように、日本人が取分け音階上共通性の
あるアンデス高地の音楽に強く魅かれることが挙げられると思われます。しかしながら、移民が14世紀以降中南米に
持ち込んだスペイン系を中心とした欧州の民俗音楽との融合とも言えるクリオージャ音楽へ
の関心はそれほどでもないようです。願わくば、コスキン・エン・ハポンが30周年を迎え日本でのフォルクローレ
の普及が進むにつれ、中南米の文化的・音楽的多様性への日本人の理解がより一層深まって欲しいと切望します。
政府等公的機関のフォルクローレ普及への更なる支援により、日本のフォルクローレ・アーティストたちが上述する
クリオージャ音楽なども包含した本来のフォルクローレの多様性への造詣を深め、来日する中南米の
フォルクローレ・アーティストのみならず本場のコスキン国民音楽祭や中南米のフォルクローレ界で活躍する
アーティストたちを生で観ることが出来るような機会が増えることを、川俣での素晴らしい3日間に立ち会うことの出来た一
アルゼンチン国民及び一コルドバ市民として、望みます。30周年おめでとうございます!