夢見る人間たちが築いた理想郷 |
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ブラジルの伝統文化、音楽、舞踊、カーニバル他 ブラジルの土着伝統宗教カンドンブレ系の霊媒者たちと ブラジルは文化のるつぼと言われ、先住民の伝統文化からヨーロッパ人が持ち込んだ文化、奴隷たちが持ってきたアフロ文化、そしてアジア移民たちの伝統文化などあらゆる文化の保存版と進化した多様多彩な文化が見られる。 ラテンアメリカの中では文化水準は高く、ブラジル人のハイレベルな文学作家、音楽家、彫刻家、画家、写真家が世界中で活躍している。文学や映画なども盛んであるが、ここでは外国のものにとって魅力の大きい音楽、踊り、カーニバルなどの簡単な紹介を試みることにした。
16世紀にブラジルの土を最初に踏んだポルトガル人により、ヨーロッパ文化のブラジルへの導入は始まった。ポルトガル人が少人数の用心深い植民者グループを作って、未知の海岸地帯を探検していた頃、原住民であるインディオの焼き物師たちは鉢を作り、職人たちは儀式で使う石斧を磨いていた。また、植物の繊維でできたお面をかぶり、藁を編み込んだ、羽の付いた風変わりなかぶり物で着飾ったインディオたちは、洪水や創造の神の伝説を語りながら、楽器を奏で踊っていた。 ブラジルの文化は、単なるヨーロッパの白人と、アフリカの黒人と、土着のインディオの貢献によるものではない。ヨーロッパ人とアフリカ人とインディオの異種族混交は、彼らが初めて出会ったその時からずっと行なわれてきた。これら3つの文化は、ブラジル人の感性と行動様式を、徐々に形成していったのである。今日では、どこまでがどの文化の影響によるものかを区別することは困難である。それ故、ブラジルの民族芸術は、南半球で最も豊かで変化に富んだ芸術だといえよう。 19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルト軍がポルトガルを侵略した結果、ポルトガル王室はブラジルへの移転を余儀なくされた。これを機に、ブラジルでは「ヨーロッパ化」が起こった。ポルトガル国王ドン・ジョアン6世は、リオ・デ・ジャネイロの知的活動を奨励し、宮廷印刷所や王立図書館などの文化施設を設立した。また、国王は、フランスの芸術使節団をブラジルに招へいし、ヨーロッパの美術アカデミーにならって美術工芸アカデミーを設立した。そして、王国の首都としてのリオ・デ・ジャネイロを「近代化」するために、ネオクラシック様式を取り入れた。 特にフランス人たちにより築かれた文化伝統は強い影響力を持っていたので、ネオクラシック様式と美術アカデミーは、共和制の時代に入ってもブラジルの視覚芸術を支配し続けた。
ブラジルの起源、つまり、リード・フルートを奏でる原住民インディオと、歌を唄いヴィオラを演奏するポルトガル人、加えて軽快なリズムに合わせて踊るアフリカ人により、ブラジルは音楽の国と言われるまでになっている。ヴィラ・ロボスのクラシックから、甘美なボサ・ノバやビートのきいたサンバまで、非常に洗練された質の高い多様な音楽がブラジルで発展した。 ブラジルの大衆音楽は、クラシック音楽と共に発展した。ブラジルの大衆音楽は、ヨーロッパの伝統的な楽器、つまり、ギターやピアノやフルートを、フライパンや、「クイッカー」と呼ばれる、小さな樽の片側に皮をはり、その皮の中央に棒をはさみ、その棒と皮の摩擦で独特の音を鳴らす楽器や、タンボリンなどのリズム・セクションと融合させたものである。1930年代になると、ブラジルの大衆音楽はラジオで流され、マスコミの強力な手段の1つとなった。 1950年代後半リオ・デ・ジャネイロで生まれた「ボサ・ノバ」は、初め、上・中流階級の家庭でごく内輪の音楽として演奏されていた。ブラジルのサンバのリズムとアメリカのジャズが融合して創り出されたこの音楽は、物悲しく、時にはキーをずらして歌われた。また、歌詞に重きが置かれ、その後の新しい音楽コンセプトの代表格となる。ブラジルでは、現代詩人と大衆音楽の作曲家(ヴィニシウス・デ・モライス、シッコ・ブアルキ、トム・ジョビン、ルイス・ボンファ、バーデン・パウエルなど)の共同作業により、数々の素晴らしい「ボサ・ノバ」が生まれた。 1968年、つまり、独裁政権時代下、都市ゲリラや政治機構に対する不安が渦巻く中、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、そして、ガル・コスタなどの「トロピカリスト」が現れた。この「トロピカリズム」は、世界共通の音楽(ラテン・ビートやロックン・ロール)とブラジル固有のリズムをブレンドしたものと言うことができる。この音楽は非常に独創的で、叙情に満ち、理知的で、「ボサ・ノバ」よりもテンポが速く、リズムに溢れている。 ここで、ブラジルの各地方の大衆音楽について触れてみよう。まずは、北東部で生まれた「フォホー」だが、これは、足を踏みならすカントリー・ダンスに、アコーディオン、フルート、ギター、そして、パーカッションが加わったものだ。「フレーボ」も北東部で生まれた音楽だが、こちらはエネルギッシュでシンプルな音楽である。リオの「ショリーニョ」(直訳すると「小さな涙」)は、様々な種類や大きさのギターやフルート、パーカッションにより演奏される柔らかなインストルメンタル音楽だ。時には、クラリネットやサクソフォーンが加わることもある。世界的に有名なのが「ランバーダ」だ。「ランバーダ」は、テンポの速い官能的なダンス音楽で、その名は「むちで打つ」というポルトガル語の動詞から由来しており、腿と腿をぶつけ合うことを意味する。しかし、ブラジルの大衆音楽の代表と言えば、やはり「サンバ」の魅惑的なリズムだ。「サンバ」の正確な起源はわからないが、3つの異種文化、つまり、ポルトガルの優雅な歌と、アフリカのリズムと、原住民インディオの軽やかなステップを元に、リオ・デ・ジャネイロのストリートで生まれたと、一部では考えられている。また、単にアフリカが起源で、パーカッションと手拍子をベースとした「バットゥーケ」から発展したという説もある。 今日のブラジルの大衆音楽は、新しいリズムと新しいメロディーを追求し続けている。ブラジルの演奏家と作曲家は、あらゆる音楽を利用して、世界中の聴衆の心を掴み魅了しようと努めている。 【ブラジル音楽サイトCaminhos Cruzados】 【ブラジル音楽を学ぼう】
ブラジルの民族舞踊と民族劇は、民衆の芸術性を豊かに表現している。その主題やリズム、衣装や振り付けなどを見ると、ブラジル文化を形成する3つの文化が複雑に影響しあっていることがわかる。ブラジルには様々な民族舞踊があるが、それらの全てが、ポルトガル人とインディオとの戦い(ペルナンブッコ州とアラゴアス州の「カボクリーニョス」や「カイアポス」)をドラマ化したものや、ゴヤース州のピレノポリスで行なわれる「カヴァリャーダ」を題材にしたものである。この「カヴァリャーダ」は3日間続けて行なわれる野外劇で、中世の騎士の馬上試合に由来し、イベリア半島で行なわれたキリスト教徒とムーア人の戦いを描いたものである。 カポエイラ カポエイラは様式化された儀式的な格闘技ダンスで、独特の伴奏がつき、主にバイーア州のサルヴァドールで見ることができる。ブラジルの舞踏と格闘技芸術の両方を特徴的に表しているカポエイラは、アンゴラを起源とする格闘技から発展した。奴隷制時代の初め、黒人同士の喧嘩が絶えず、農園主は彼らを捕まえると両者を罰していた。奴隷たちはこの処罰を不当だと考え、音楽と歌を用いて喧嘩であることをぼかすようになった。それから長い時間をかけて、カポエイラは、2人の競技者が足と頭だけを使って(手を使うことは禁止されている)殴りあうスポーツに進化していった。競技者は、横とんぼ返りをしたり、逆立ちをして床の上をグルグル回ったりする。カポエイラは、ビリンバウという、端から端まで金属の弦が張られた弓型の木製楽器の演奏に合わせて行なわれる。(このビリンバウの下の方には、共鳴箱のような役目をする色づけされたひょうたんが付けられており、演奏者は弓を震動させて演奏し、ひょうたんの中の種が音を立てたら、弓に張られた弦を銅貨でたたいて、うなるような独特な音を出す。) カーニバル ブラジルでは2月になると全国で一斉にカーニバルが行われ、特にリオ・デ・ジャネイロのカーニバルは世界最大で世界中から観光客を集める最大のイベントだ。その中で「サンバ学校(Escola de Samba)」のパレードコンクールが見もので、カーニバルのパレードに参加するサンバ学校の生徒のほとんどは、リオ・デ・ジャネイロ近郊の貧しい人々であるが1年をかけて準備するとも言われその伝統は簡単にまねのできない徹底さがある。 それぞれのサンバ学校は、1つのテーマにそって趣向を凝らさなければならず、そのテーマは、歴史上の事件や、偉人や、ブラジル文学から選んだ物語や伝説であったりする。衣装も、テーマの時代背景や場所を上手に表す必要があり、更にサンバの歌詞や大きな山車も、テーマの内容を詳しく表現していなければならない。 |