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ブラジルの経済
A ECONOMIA BRASILEIRA
[概要]
[経済史]
概要
ブラジル経済は、人口1億7000万人、GNP (国民総生産)7300億ドル(1999年現在)の大国であり、ラテンアメリカ諸国の中で支配的な地位を占めている。戦後のブラジル経済は、政府主導のもと積極的に工業化を推し進め、都市部を中心に工業部門が急速に発展してきた。現在では高度に発展した工業部門を有しており、小型ジェット飛行機などの工業製品輸出国としても知られている。自動車生産は2000年には160万台に達し、世界で第10位の生産国である。サンパウロやリオデジャネイロなどの大都市には高層ビルや高級アパートが立ち並び、人々は先進国と変わらぬ生活をエンジョイしている。
しかし、ブラジルの大都市には例外なく何百万人という貧しい人々が住むスラム(ファ ベーラと呼ばれる)が存在するのも事実である。工業化の反面で農村部から大量の国内移 民が生じ、都市は無秩序に拡大し、公害と犯罪の悪化に市民社会は脅かされている。農村 部においては、近代的な営農によって大農場が拡大の一途をたどるのに対し、零細農・小 作は就業機会を失いつつあり、土地を失った農民は都市へ流出する。こうした農村部の崩 壊は、農村のみならず都市の貧困問題をいっそう深刻なものとしている。
マクロ経済においても、戦後から今日まで、極めて深刻な変動を繰り返してきた。とく に80年代には対外債務危機とインフレの高進によって経済が混乱し、「失われた10年」を経験した。様々なインフレ安定化政策が実施されたが、失敗を繰り返す度にインフレ率が高まり、ついにはハイパー・インフレとなった。こうしたマクロ経済の変動は、豊かさと貧しさが並存する社会で、階級間・セクター間の対立・抗争が激しく、整合的なマクロ政策が実施できないことがその背景にある。
しかし、ブラジル経済は90年代に入り、大きな変貌を遂げている。ラテンアメリカ諸 国を席巻した新経済自由主義(ネオリベラリズム)のもと、それまでの政府主導の開発政 策から市場メカニズムに立脚した政策運営へと転換しつつあり、政府に保護された経済か ら国際競争にさらされた経済へと変わりつつある。このため、90年代以降は、貿易・直 接投資の拡大やインフレの抑制などを実現し、経済は新たなダイナミズムを形成しつつあ る。しかし、経済自由化のもと、貧困や失業などの社会的問題が深刻化していることも否 めない。
参考資料:ブラジル経済―基本問題と今後の課題― 西島章次 (神戸大学経済経営研究所教授)(1999)
経済史
ブラジルの経済史は、連続した経済サイクル、つまり、1つの輸出産品が周期的に開発された点に特徴づけられる。具体的には、植民地時代初期の木材(ブラジル木)、16、17世紀のサトウキビ、18世紀の貴金属(金と銀)と宝石(ダイヤモンドとエメラルド)、そして、奥地探検後の19世紀から20世紀初頭にかけてのコーヒーなどがあげられる。これらを生産するための労働力には奴隷が使われ、奴隷制は19世紀末期まで存続した。このような経済サイクルと並行して、小規模農業や牧畜も、国内消費を目的に発展してきた。
19世紀半ばには、小さいながらも工場(主に織物工場)が出現した。ペドロ2世の時代には、いくつもの新技術が導入され、工業の基礎が形成され、そして、近代的な金融活動が行なわれるようになった。しかし、奴隷経済の崩壊(奴隷を維持するより、新規入植者に賃金を払う方が安くついた)、1888年の奴隷制廃止、そして、1889年の君主制から共和制への移行を機に、ブラジル経済は混乱の時代へと入っていった。共和国政府の努力により、財政はかろうじて安定し、生産は活性化したが、1929年の世界恐慌により、再び国の立て直しが急務となった。
最初の工業化の波は、第一次世界大戦時に押し寄せた。しかし、ブラジルが近代的な経済レベルに到達したのは、1930年代以降である。1940年代には、最初の製鉄所が、米国輸出入銀行の融資により、リオ・デ・ジャネイロ州のボルタ・レドンダに建設された。
1950年代から1970年代にかけては、自動車、石油化学、鉄鋼などの基幹産業が発達した。また、大規模なインフラ整備プロジェクトが着手され、完了した。第二次世界大戦後の数十年間、ブラジルの国民総生産(GNP)の平均成長率は世界の中でも上位に属し、1974年までの平均成長率は7.4%にも達していた。
1970年代に入り、欧米や日本の銀行が、中南米諸国にこぞって融資した。特に、ブラジルには、過剰なほどの資金が流れ込んだ。この莫大な資本はインフラへの投資に向けられ、民間投資が行なわれない分野には、国営企業が設立された。この資本流入により、1970年代の2度のオイル・ショックにもかかわらず、ブラジルの1970年から1980年までの国内総生産(GDP)の平均成長率は8.5%を記録した。また、一人当たりの国民所得は、この10年間で4倍になり、1980年には2,200ドルに達した。
しかし、1980年代初頭、世界的な金利の急上昇を契機に、中南米諸国は金融危機に陥っていった。そのためブラジルは、厳しい経済調整を強いられ、マイナス成長となった。資本の流入が突然途絶えて、ブラジル国内の投資は鈍化し、そして、対外債務負担増により公共赤字は増大し、インフレを加速させた。1980年代後半、通貨安定を目的とした一連の緊急対策が実施された。具体的には、通貨価値修正制度の廃止(賃金や契約金額などをインフレ率の上昇に合わせて調整していく政策)や、物価の全面凍結などが実施された。1987年、政府は、債権国との債務繰り延べ協定が締結するまで、外国民間銀行への利払いを一時的に中止した。これらの政策は期待通りの成果を上げるまでには至らなかったが、ブラジルの総生産高は1980年代の終わりまで上昇し続け、債務をカバーできるほど貿易収支がプラスとなった。
この1980年代の金融危機は、「輸入代替」工業化政策(一部の海外製品の購入を禁じ、国内産業を育成する政策)の限界を露呈させ、国内経済の開放を導くことになった。1990年代初頭、ブラジルは一連の遠大な経済改革に着手した。まず、1994年には「レアル・プラン」が導入され、経済成長にマイナス面をもたらすことなくハイパー・インフレを終息することができた。「レアル・プラン」の導入後、ブラジル政府は具体的には、緊縮財政政策、税制改革、貿易の自由化、許認可規制撤廃、民営化、そして、外資の誘引を目的とする法的、及び構造的枠組みの見直しなどを行った。このような全く新しい経済計画に基づき、政府は数々の政策を実行の段階に移している。先ず、民営化については、鉄鋼と化学肥料部門を中心に推進した。1993年、ブラジルの歳入の大部分は債務の支払いに充てられた。貿易改革の結果、今では輸入に対して量的制限を加えない世界でも有数の自由経済国となった。1990年に32%であった平均関税率は、1993年の7月時点で14%にまで引き下げられている。1991年以降、外資は再びブラジルに流入し始めており、海外直接投資は1997年に222億ドルと、1980年代初頭以来の最多額を記している。また、金融政策の自由化、国内のエレクトロニクスとソフトウェアに対する保護政策の廃止、そして、多くの港湾施設の民営化と言った規制緩和も行なわれている。
ブラジル経済はダイナミックで、また、変化に富んでいる。 1996年のGDPは7,524億ドルに達している。この中で工業の占める割合は39%、農牧業は12%、そしてサービス業は49%である。特に、対外貿易高とその内容を見ると、ブラジル経済のダイナミズムが感じられる。1988年から1992年の輸出高は、平均して430億ドル以上であり、その内の58%以上が工業製品である。また、1992年の貿易黒字は150億ドルに達している。1996年の数字では、ブラジルの輸出品の約31%がEC向けで、次いで北米が約25%(取引会社の数では米国が一番である)、アジアが17%、メルコスールが16%と続き、残りは、その他の様々な市場に出荷されている。
参考資料:在日ブラジル大使館資料:ブラジルについて
<ブラジル経済の基本的特質>
参考となるサイト:
<ブラジル経済>
<駐日ブラジル大使館のブラジル経済情報>
<ブラジル経済危機>
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