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Al-Fateh Harakat al-Tahrir al-Falistiniya

Special Thanks for This Section : al-Fateh , Palestinian Authority Ministry of  Information , PASSIA , Kata'ib Shuhada' al-Aqsa

 

■ アラファト議長直属”アル・ファタ”とその仲間
■ アル・ファタ Al-Fateh Harakat al-Tahrir al-Falistiniya

アラファト議長率いるPLO最大の組織です。クウェートで1957年1月1日付けで設立されました。PLOへは設立後の加盟ですが、イスラエルとの戦闘でアル・ファタが勝利し(カラメの勝利)、知名度が一気に上がりアラファト議長は2代目のPLO代表に就任しました。

PLOがパレスチナ自治政府へと変貌すると、アル・ファタとしては直接的なゲリラ行動は控えています。

■ タンジーム Tanzim
アル・ファタ所属の実力行使グループです。1983年に創立され、武力闘争をしています。アル・アクサ・インティファーダが始まると活発に活動をはじめ、自爆もいとわない先鋭的な攻撃部隊、その名もアル・アクサ殉教者軍団を組織しました。(下記)

結局、こう言った行動によってイスラエルから狙われ、リーダーのムルワン・バグルティは逮捕されてしまいました。

■ アル・アクサ殉教者軍団 Kata'ib Shuhada' al-Aqsa

タンジームがアル・アクサ・インティファーダで新たに設立したグループです。穏健派と言われる上部組織のアル・ファタではとても行えないような激しい闘争をしています。

カミカゼや待ち伏せ襲撃などイスラーム原理主義過激派代表のハマスイスラミックジハードと肩を並べる勢いです。

■ ブラックセプテンバー Black September
1970年9月、PLOは本部のあったヨルダンに裏切られ、レバノンへ追い出されます。そして、アル・ファタはこの裏切り行為を忘れるなと言う意味で、ヨルダンがPLOを攻撃した月を名前に冠したグループを組織しました。これこそ、最狂、最恐の国際テロ組織、ブラックセプテンバーでありました。この後、すさまじい活躍を始めるのです。

実はアル・ファタはPLOの中では穏健路線を走っていたので、急に方針を変更するわけには行きません。そのため別働隊としてブラック・セプテンバーを立ち上げました。しかし、アル・ファタとのつながりがバレてくると、そうそうに活動を停止し解散しました。

■ PRC Popular Resistance Committees

2000年に始まった、アル・アクサ・インティファーダで新たに組織された、アル・ファタ所属の小さなグループです。

当初から、フォース17などと行動をともにしていましたが、最近では単独でイスラエル国防軍に対して攻撃を始めました。

PRCはタンジームの隊員であった、ジャマル・アブ・スマハドナ書記長Jamal Abu Smahadnaが、ガザのラファで組織しました。PRCはサラ・アッ・ディン部隊やジェニン旅団と名乗ることもあります。

2004年8月にはイスラエル空軍の戦闘機がスマハドナ書記長の乗る車に向けて対戦車ミサイルを発射しましたが、スマハドナ書記長は負傷しただけで済みました。

さらに、12月にアラファト議長が亡くなってから最初のターゲットとされたスマハドナ書記長は、再度イスラエル空軍の攻撃を受けましたが、今度もミサイルが命中する寸前に車から飛び出し、負傷したのみで済みました。

2005年9月4日、PRCはガザの治安長官であったムーサ・アラファト氏を暗殺しました。ムーサ・アラファト氏は故アラファト議長の甥です。

そして、PRCは活動を止める事はなく、最近では自家製ロケット”ナセル4”を作っています。

2006年6月8日、スマハドナ書記長はPRCの訓練キャンプにいる所を、イスラエル国防軍のピンポイント空爆で暗殺されてしまいました。スマハドナ書記長は42歳でした。

■ PSF Popular Struggle Front
1969年にアル・ファタのメンバーだったシャミー・ジョシェー博士Samir Ghoshehが分離独立した組織です。規模は小さい左翼グループです。

ウエストバンクで設立されましたが、本部をダマスカスへ移動させます。当然バックアップはシリア・バース党です。アラファト議長のアル・ファタから分離したものの、結びつきは依然強く二度の合流と分離を繰り返し’91年にはPLOへ再加入しました。

■ PLF Palestine Liberation Front
1977年4月24日、PFLP−GCから分離したグループです。リーダーのアブ・アッバスがPLOの上級委員会メンバーに選出されると、PLFもアル・ファタの衛星組織となりました。バックアップはイラクとリビアです。

■ フォース17 Force 17
1970年代のはじめ頃にアル・ファタが主流になり組織した部隊です。主にPLOのリーダー達を護衛するためのSP隊なのですが、最近ではユダヤ人の誘拐、殺人、国防軍との撃ち合いと何でもこなしています。

名前にある17は最初のリーダーの電話番号の末尾2ケタから採ったとも、オフィスの番地から採ったとも言われています。早い話が、17に特別な意味はないということでしょう。

■ アブ・ニダル Abu Nidal
 アル・ファタから分離独立した組織です。アブニダルはパレスチナゲリラの中でもっとも過激なグループでそのターゲットはユダヤ人のみならず、なんとPLOの最高幹部まで暗殺したのです。

PLOのアブ・イヤド氏は西ドイツオリンピック・イスラエル選手団襲撃事件の首謀者でもあり、PLOの最高幹部でした。アブニダルはこのアブ・イヤド氏を暗殺したのです。なんと襲撃したのはボディーガードで、実はアブニダルの構成員だったのでした。しかし、なぜ同じパレスチナアラブ人を襲撃するのかという疑問があります。

PLOは穏健だからダメだと言っても、わざわざ襲撃するなんて労力の無駄でしかありません。そして、この裏にはモサドいて、アブニダルを操っていたのではないかとの噂がもっともらしく流れています。

レバノン戦争のきっかけを作ったのもアブ・ニダルでした。アブ・ニダルのゲリラが、イスラエルの駐ロンドン大使シェロモ・アルゴブ氏を襲撃し、イスラエルにレバノン戦争の引き金を引かせたのです。

 

■ アラファト議長とその仲間

写真提供:PA情報省

ヤセル・アラファト Yasser Arafat
カイロ生まれで、クウェートでアル・ファタを設立し、その後PLOの2代目議長に就任しました。パレスチナ自治政府が成立すると、議長に就任しました。

オスロ合意により、イスラエルとの和平が進んだ事に対する功績でノーベル平和賞を受賞しました。

2004年11月11日、入院先のパリで死去しました。

 


写真提供:PASSIA

ムハンマド・アッバス(アブ・ムーゼン) Muhammad Abbas(Abu Muzen)
難民出身のアッバス氏はシリアで学び、後にアル・ファタの設立メンバーとなります。

PLOの上級委員会に選出され、イスラエルとの交渉にも従事しました。湾岸戦争では、PLOがイラク支持と誤解され非難されたため、アラブ各国へ誤解を解くため派遣されました。

2003年4月30日、パレスチナ自治政府で内閣が組織され初代首相に任命されましたが、アラファト議長と意見が合わず、9月3日に辞任しました。

アラファト議長亡き後、パレスチナ自治政府の議長に就任しました。


写真提供:PASSIA

アハメド・クレイア(アブ・アラ)自治政府首相 Ahmed Qureia(Abu Ala)
アル・ファタの幹部でアッバス首相が辞任した折に、アラファト議長から緊急内閣の組閣を命じられ、暫定首相となりました。(後に正式就任)

ノルウェーを介してのPLOとイスラエルの極秘合意会談(後のオスロ合意)ではPLOの代表として活躍しました。


写真提供:PASSIA

ムルワン・バグルティ Marwan Barghouti
タンジームの司令官です。アル・アクサ・インティファーダが始まると”アル・アクサ殉教軍団”というグループを組織しました。

このグループは自爆攻撃を活発に行い、リーダーのバグルティはイスラエルから最重要危険人物に指定されました。そして、パレスチナ活動家にしてはラッキーな事に生きたまま逮捕されました。 

アブ・アッバス Abu Abbas
当初PFLP−GCに入隊していたアッバスは分離独立し、自身の部隊PLFを設立します。派閥ではアラファト議長派ではありませんでしたが、アッバスがPLOの上級委員会のメンバーに加えられると議長派となります。そして、PLFもアル・ファタに組み込まれました。

アッバスはイラクにいましたが、アメリカがイラクに侵攻しバグダッドに潜伏していたアッバスを逮捕しました。

アメリカは以前PLFが行なったシージャック事件で乗り合わせていたユダヤ系アメリカ人が殺されていたのでした。ところがアメリカ軍はアッバスの心臓にある持病を認識しておらず、健康状態が悪かったアッバスは心臓発作を起こし亡くなってしまいました。

アブ・ニダル Abu Nidal
アル・ファタのリーサルウエポンことアブ・ニダルは難民出身で、若くしてアル・ファタへ入隊し活動していました。そして、幹部にまで昇進しましたが穏健路線へと進むアラファト議長ではイスラエルは倒せないと判断したアブ・ニダルは、’74年にPLOの反主流派として自分の名前を冠したアブ・ニダル(組織)を設立しました。

とても過激なアブ・ニダルはイラクのバース党にバックアップされており、イラクに住んでいましたが、2002年8月、突如、自宅アパートで自殺したと発表されました。しかし、イラクによる暗殺ではないかとの疑いもあります。

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