2003年企画「大阪の境を歩く」

第1回 放出街道



 行ってまいりました。地下鉄鶴見緑地線「今福鶴見」から中央線「深江橋」まで。

 大阪市と東大阪市の境界を南北に走る「街道」です。

 歩き出してすぐ「大峯山山上」と刻み込まれた石碑を見て、「願正寺」(この辺りで
一番大きなお寺とか)へ、この界隈は細街路いわゆる「路地」が入組んだところでし
た。

 「鶴見神社」で剣(銃剣でしょうか)の形をした戦没者慰霊の碑(鉄製)を見る。
 「神社」の前は東西にまっすぐ走る広く整備された道路。これを渡って「街道」を南
下していきます。

 「鶴見斎場」を左に見て「寝屋川」に突き当たります。出発前に頂いた地図で見る
と、東西に一直線に延びた寝屋川の、ここは丁度真中になっています。東は遠く生駒山
系、振返ると京橋の高層ビル群。川面に空の青さを映し、大阪の景観の「ナイススポッ
ト」だなと思いました。


 「阿遅速雄神社」は『式内社の古い社。伝えによると、天智(てんじ)天皇7年
(668)、熱田(あつた)神宮に祭る草薙剣(くさなぎのつるぎ)を盗んだ者がおり、当
地まで逃れてきたが大嵐にあい、恐れてそのまま放置して逃走、土地の人が当社に祭
り、その後熱田神宮に奉還したという。境内には樹齢400年を超すくすの木があり、大阪
府天然記念物に指定されている。境内(正面鳥居右側)にお蔭灯篭(慶応4年−1868−
献灯)1基がある。江戸時代、ほぼ60年周期で爆発的に流行した、伊勢参宮お蔭参りが
あった。これに因み、街道筋には献灯されることが多かった。この1基は、現在市内に
ただ一つ残るものである』
 (http://www.osakapubliceng.or.jp/rekishi/nakaturu/p63.htm)



 「放出駅」前。再開発が進行中です。南側の「創造(?)」と北側の「衰退」が悲しい対
比をなしていました。「高層ビル建設反対」の立て看板を横目に、やがて「街道」は
「身の丈に合った」といいますか、その幅と両側の家並みは、ここが「都市大阪」であ
ることを忘れさせるほどの「懐かしさ」を醸し出し始めます。そんな思いをかき消す車
の往来を避けながら、脇道にそれると忽然としかも堂々とした明治〜昭和初期(?)の「下
見板貼り」の洋館に出会います。あの「コニシボンド」からの移築かもと詮索しなが
ら、「諏訪神社」に到着。地下鉄「深江橋」駅手前の「満座劇場」の「まねき看板」に
感心しながら解散となりました。

 みなさんお疲れ様、そしてどうもありがとう。
(乞誤記訂正)



 中之島の研究会では凝縮された報告と問題提起。「住むこと」と家族の繋がり。

 時代と共に変化するのは当然ですが、今日だからこそもっと掘り下げた「住まい方」
の提起が求められているような気がします。


P.S.「放出」。「はなてん」で一発変換で出てきますね。読み方は全国区なんでしょう
か?

 ちなみに「杭全」これもでますね。

 チョット調べてみました。「放ち出で」と古語事典にあります、「母屋に続けて張り
出した建造物」と。「ハナチデ」が訛ったものと脇田 修氏は『地名は語る 大阪市内
偏』(文理閣1982年刊)の中で解説していました。









 
編集・発行:大阪都市文化研究会事務局