2003年企画「大阪の境を歩く」

第5回 阪急淡路駅〜御旅町〜JR吹田駅



●2003年7月19日(土)曇時々晴 気温は高くないが蒸し暑い。

  いつもの通り14:00に阪急淡路駅にて集合、薄日の差し始める中、線路下通路に
詩の落書きなどを眺めながら三原さんの先導で出発しました。商店街を抜け、新幹線の
高架下に沿って少し歩いたところの緑地帯に中島大水道跡の碑と水門の跡がありました。



【中島大水道】
江戸時代(1678年)地元の農民が協力してつくった水路。現在の東淀川区・淀川区・
西淀川区をまたがる全長約9.5キロの大水路であり、明治32年の淀川改修まで機能
していた。


  この辺りの新幹線の線路は中島大水道の跡地を走っているということ、線路から分岐
したかのようにまっすぐ伸びる道はやはり枝分かれした水路で神崎川まで伸びていたは
ずだ、と三原さんの話を聞きながら古びた民家の脇を入ると巨大なコンクリートの塊…
砲台跡が目に飛び込んできました。


【砲台跡】
旧帝国陸軍の高射砲台の跡地。昭和10年頃作られたという。この近くには兵器工場
(延原倉庫が後に入った)や国鉄の貨物線があり軍事拠点だったため、米軍の砲撃を避
けるため設置されたと思われる。他にも数基あったが取り壊されたらしい。


  都計道路の延長線上にあり、ここ以外はほとんどが市の買い上げ済になっているにも
関わらず、この砲台の下は人がしっかり住んでいるため工事が進まない様子、住環境は
どうかは窺い知れないけれど、まるで映画の世界のようななんとも幻想的な景色でした。
  兵器工場の跡地にある延原倉庫には瓦屋根の倉庫など古いと思われる建物もありまし
た。この前にJR貨物線が通っているのですが、その下を少し地面を掘り下げた形で車
道と歩道があります。これは昔の水路をつぶして道路にしたのではないかと推測される
そうです。
  この後、尼崎・崇禅寺への道標など見つけながら下新庄から御旅町へ、神崎川の一本
南にあった川の土手沿に古い民家が立ち並びます。覚林寺という立派なお寺、中には船
板を再利用した壁を持つ家もありました。この西御旅町・東御旅町は神崎川の南にある
のですが大阪市ではなく吹田市です。これで元の川が吹田の境になっていたことがよく
分かりました。元川筋をはずれ東御旅町を縦断する形で北上、美しい吊り橋の高浜橋を
渡りました。左に大幸薬品のラッパのマーク、右奥にメロード吹田を望むビューポイン
トです。右手には神崎川と相川の分岐点も見えます。大幸薬品にとどまらず、この吹田、
東淀川地区の神崎川沿いには薬品・化学や染料工場が多くあるとの説明を受け、西陣染
色を右手に見ながら神崎川沿いに少し歩き、吹田の渡し跡をチェックして吹田村の古い
町並みに入っていきます。亀岡街道と吹田街道の分岐点を示す道標などもありました。
  この辺りで暑さも限界に達し、吹田歴史文化まちづくりセンターにてしばし休憩、勉
強の足りない私はビデオでお勉強しながら涼ませてもらいました。

【吹田歴史文化まちづくりセンター】
江戸末期の庄屋屋敷を市民から寄付された吹田市がこれを改修して無料で公開している
施設。イベントなどに活用されている。

  そして西尾邸へ。この日はイベントがあるということでお宅の中は拝見できませんで
したがお庭と離れを拝見することができました。

【西尾邸】
江戸時代の仙洞御料(上皇のご領地)の庄屋だった西尾家の屋敷。主屋も格式が高く、
また当主が代々趣味人だったため、茶室や温室などもつくられた。定例見学会も催され
ている。

  勉強会は勤労者会館にて行なわれました。今回は発表はなくこの日の行程をデジカメ
と地図で確認していきました。打ち上げはメロード吹田最上階のレストランにて。以前
は焼肉とイタリアンというよくわからない取り合わせだったそうですが、焼肉コーナー
と居酒屋コーナーとバーコーナーに分かれたますますよくわからないお店になっていま
した。眺望は素晴らしいが値段がその辺の居酒屋のダブルスコアなのにびっくり。早々
に退散し駅横地下街の居酒屋にて締めなおしました。
  皆さんの感想をまとめてみると、立ち並ぶ民家の作りが町屋ではなく農家であり、吹
田というところが都市的性格が希薄な「農村」であることを実感できた、神崎川の姿と
昔の村の位置関係がよくわかった、砲台跡が印象的だった、などでした。

【参加者】山田、辻野、三原、柏原、壷田、川内(研究会のみ)







 
編集・発行:大阪都市文化研究会事務局