2003年企画「大阪の境を歩く」


第7回 森小路〜守口



■ 10/18(土)

●素晴らしい秋晴れの一日、端シリーズ第7回目の今回は、森小路を起点に守口方面を
目指しました。


◇森小路は
都文研でもお馴染みの長屋地区。整った街区に戦前の集合住宅の並ぶ様は、大阪の誇れ
る都市景観のひとつですが、おしゃれな古い1戸建てを所々に見かけるのも守口辺りの
意外な特徴ではないかと思います。その中に芸術家らしき住まいを発見、陶器片?をは
め込んだ壁や1つ1つずらして並べた窓など一見妖しげだけれども違和感はない。年数
を経ているせいか周辺からも決して浮き上がってはいない。なにわのフンデルトワッサ
ー様物件。

  
(左から)
《新森の長屋街》《芸術家?の家》


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◇八幡神社(旭区清水)から東へ
神社前を東に伸びる道は守口市と大阪市の境界をなしているらしいが、境界が鋸の歯の
ようになっているのか、数軒おきに守口と大阪市が入れ替わります。町名のプレートを
見ては面白がるマニアックな一行でした。この道をさらに進み、護念寺という寺の角で
北へ折れると中高野(放出)街道。その辻角に道標様の石があって刻印は「りよごく
は」と読めた(以下埋没)。"りよごく"とは「両国」=摂津と河内のことで、以下"は
し"と続くのだろう。すなはちかつて大阪にもあったという両国橋の一部らしい。


 

《両国橋跡?》


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◇中高野街道北上
付近には古い家が点在。見かけた倉は何れも段倉。敷地の境界の見た目では判然としに
くいのが多いのは農村地帯だった名残か。長屋の向き合う生活道路に中央分離帯のある
のを発見、水路起源ではないか(三原氏)とのこと。高瀬神社に立ち寄る。ここには昭
和初期に土地の人によるという砲弾を象った(砲弾そのもの?)碑が奉納されていた。
よく金属供出を免れたものと思う。付近には別の街道が通っていてこのあたりで交差し
ていたらしい。また神社前の広い道はかつて「高瀬川」という川だったとのこと。

  (左から)
《高瀬神社の砲弾》《街道脇のポンプ》


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◇さらに北上
沿道は変哲のない住宅地ながら道筋はよく保っている。京阪高架をくぐり、文録堤を経
て国道1号を渡る。守口小学校門口まで足をのばして記念撮影。


 

《守口小学校前》


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ウォッチング後はバスにて吹田へ移動。内本町コミセンにてさっそくデジカメ画像での
行程確認を行いました。なお、今回は趣向少しを変えてコースの途中に集合地点(八幡
神社)を設けて行程前半を自由行動としました。各人の目に付いたものを撮って、会後
の研究会で合評しようというものでした。各々思い思いに撮っていながら全く同じ対象
を収めているのもあり、時間がかかるものの時には面白いかと思いました。
そのあと、予定していた壷田さんの『北京最新的事情』報告に。画像を主に多岐に亘っ
たので、隣国の首都が少しは身近になった気がします。まるで再生町屋のような旧式民
家をベースにしたカフェも現れてきているそうで。胡同の密集エリアが天安門広場に比
較的近かったことは天安門事件との関連を想像したい誘惑にかられます。また私には、
極めてアメニティの高そうな胡同のコミュニティと、それとは対照的にいかにも強権的
な解体の様子が印象に残ります。
【参加者】壷田、三原、鷲原、辻野、川内、計5名(辻野氏は研究会のみ)






 
編集・発行:大阪都市文化研究会事務局