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Nast's Santa1
Who's Santa Claus?
Part 3
アメリカでのセント・ニコラス

Index Page
Part 1 セント・ニコラスについて
Part 2 いろいろな民話とニコラス
● Part 3 アメリカでのセント・ニコラス
Part 4 現代のサンタ・クロース

 




The Visit From St. Nicholas
「セント・ニコラスが最初に新大陸に登場したのはいつですか?」
すごく難問に思えるこの問の答は、実は簡単です。正確な日付や場所までわかっています。それは、1492年12月5日、所はカリブ海のヒスパニオラ島 (Hispaniola) です。その日、セントニコラス祭の前日に、現在のハイチ (haiti) の北西部に投錨したコロンブス (Columbus) は、その湾をニコラスにちなんで「セント・ニコラス湾 (Mole St. Nicoles)」と名づけました。

これが名実ともに、新大陸への「セント・ニコラスの来訪」だったわけです。

イタリアのジェノバ生まれの船乗りだったコロンブスが、船乗りの守護者であるニコラスに航海の無事を感謝し、大西洋横断の名誉を分かち合おうとしたことは想像に難くありません。

しかし、アメリカでのニコラスは「順風満帆」とは行きませんでした。強い逆風が吹きはじめ、19世紀まではあまり騒がれることのない聖人の一人にすぎませんでした。

理由は、アメリカへの入植者が、プロテスタントが主であったということです。祝祭はカトリックの聖人に関連して行われるのが常で、プロテスタントにとればセント・ニコラスの祝祭も、「改革」の霧の向こうに閉ざしてしまいたかったのでしょう。

しかし、こうした時代でも、個人的な祝いとしては、チェコのモラビア派 (Moravian) やオランダの移民者の間で、ニコラスの伝説に依拠した祝事が催されていたようです。

ニコラスが再び活力を取り戻し、お祭の中心的な役割を果たすようになるのは19世紀の初頭のころです。この復活は、純宗教的な祝典より民衆によるお祭が好まれるようになったこと、アメリカ人の文学的な努力、そして、クリスマスを祝う習慣のあるドイツなどの地方からの移住者が増えたこと、などが原因だと言われています。

それでは、アメリカでのセント・ニコラスがどのように認められ、大衆に浸透していったかを見て行くことにします。


● ジンタ・クラースの登場
Sant & Christ Child
ジンタ・クラースとクリスト・チャイルド
オランダのプロテスタントは、ニュー・アムステルダム(後のニュー・ヨーク)に定住し、故郷で「ジンタ・クラース (Sinter Klaas)」 と呼ばれていたセント・ニコラスをこの新しい世界へもたらしました。アメリカ版のサンタ・クロースの姿は、このジンタ・クラースにヒントを得たと言われています。

1773年、すでにその名前は「St. A Claus」としてアメリカの新聞に掲載されましたが、ジョン・ピンタード (John Pintard:1759-1844)やその義理の兄弟である著名な歴史家ワシントン・アーヴィング (Washington Irving:1783-1859)、有名な詩「A Visit From St.Nicholas」を書いたクレメント・ムーア (Clement Moore:1779-1863)、そして、「Kriss Kringle's Book」 を書いた匿名の作家、上でもお話した挿絵画家トマス・ナスト (Tomas Nast) などが、サンタ・クロースを復活させ、そのイメージを形作った功労者でした。


● 歴史学協会に現れたセント・ニコラス
ピンタードは、現在セントラル・パーク (Central Park) ウエストにあるニュー・ヨーク歴史学協会 (the New York Historical Society) の創設期に指導的役割を果たした人です。

彼は、最初にニコラスを復活させた一人で、当時ニコラスはこの協会の守護者だったといいます。1810年、協会での晩餐会でピンタードは、壁面に描かれたある絵の除幕を行いました。そして、そこには、暖炉にかけられた靴下の横に立つセント・ニコラスと子供たちが描かれていました。この斬新なクリスマスの暖かい雰囲気の絵の下には、「サンクタ・クラウス、善良なる聖人 (Sancta Claus, Goed Heylig Man)」と銘打たれいたと言われます。


● 歴史学者のベスト・セラー
Washington Irving
Washington Irving
1783-1859
オランダ版のセント・ニコラスの詳細を最初にアメリカ人に紹介したのは、人気作家で歴史学者でもある、ワシントン・アーヴィングでした。1809年に出版されたデイエドリッチ・ニッカーボッカー (Diedrich Knickerbocker) 名義の著作「ニュー・ヨークの歴史」で、アーヴィングはニコラスを詳しく取り上げています。

この本は、ニッカーボッカー (Knickerbocker) と呼ばれていた、ニューヨークに移民したオランダ人の歴史についての書籍で、その中でアーヴィングは、何と23回もセント・ニコラスに言及しました。

彼のこの著作が、いにしえの聖人を、アメリカ人の心にいきいきと蘇らせました。アーヴィングはセント・ニコラスの日の前夜、ブラック・ピーター (Black Peter) を供には連れずに馬の背に乗って現れると描写しているといいます。



● サンタのイメージを決定づけたムーア
St.Nicholas2
Clement Clarke Moore
1779-1863
オランダ系アメリカ人のもたらしたセント・ニコラスは、1922年にクレメント・クラーク・ムーア (Clement Clarke Moore) の書いた、「セント・ニコラスの来訪 (A Visit From Saint Nicholas)」もしくはより有名な副題「クリスマスの前夜 (The Night Before Christmas)」という詩によって、完全にアメリカのものとしてその姿を変えました。

book of Nicholas
最近出版された新しい
「A Visit From St.Nicholas」の本
この詩は1823年に出版されましたが、名実共にニコラスの伝説の多くの要素の統合ともいえる内容で、クリスマスの恵みとニコラスの人気を押し上げました。

ムーアは、細部にいたるまで、実にいきいきとしたサンタ像を作り上げています。例えば、笑い、ウインク、うなずき…。そして、忘れてはならない、「煙突を出入り口に使うこと」などが、ムーアの詩によって初めて登場しました。また、サンタを「妖精」と結びつけた描写をしたのもムーアが最初で、これがそれから先のサンタ像を、大きく左右することにもなります。

ところで、詩の中でムーアは、「(セント・ニコラスは)指をお鼻の横にそわせて(lays his finger aside of his nose)」と書きましたが、これは先のアーヴィングの著作からそのままの引用したものだと言われています。


その他、現在のサンタ像に影響を与えたものは、1842年に発表された「クリス・クリングルの本 (Kriss Kringle's Book)」という書籍でしょう。これは、子供たちにプレゼントを運んでくれる「陽気な、太った、気のいい、ユーモアに溢れた」セント・ニコラスもしくはクリス・クリングルのお話の本でしたが、作者は未だに判っていません。

しかし、これらの本のサンタ・クロースの描写や、ロバート・ウェイヤ (Robert Weir) のイラストは、痩せた修道士のイメージを、元気一杯の陽気なキャラクターに確実に変えて行きました。



● 定着したサンタのイメージ
St.Nicholas2
Tomas Nast による
Harper Magazine(増刊号)の表紙
ムーアらの作り上げた「好々爺」のイメージは、さらに確固としたものに成長します。

風刺画で有名なトマス・ナスト (Thomas Nast) のイラストレーションは、この成長の中心的役割を果たしたと言えるでしょう。

彼は、丸まるとしたサンタ像を 1860から1880年にかけて「週間ハーパーズ・マガジン (Weekly Harper's Magazine」のクリスマス週間に描きました。

ナストは絵の中に、北極にあるサンタの仕事場 (Work Shop)、世界中の「よい子」「悪い子」の名前を書き込んだ有名な「リスト」などを想像力豊かに描き加えました。またムーアの詩で「妖精サイズ」だったサンタを、「人間サイズ」にし、より親しみのあるサンタ像を作り上げました。
link [Incredible Arts] [ 該当ページ]
Tomas Nast の古典的なサンタの絵が楽しめる LA、Carmel出版社 のサイトです。これほど見事な復刻版を見れるサイトは他にないでしょう。




● コカ・コーラのサンタ・クロース
Cocacola2
Haddon Sundblom による
「コカ・コーラ」の宣伝イラスト
サンタ・クロースをより身近な存在にし、ユーモア溢れる「等身大」のサンタにしたのは、1931年の「コカ・コーラ」によるクリスマス・キャンペーンの宣伝でした。この年コカ・コーラはこのイメージのサンタの絵を連作として発表し、大人気となりました。

描いたのはシカゴ在住のヘイドン・サンドブルム (Haddon Sundblom) という広告のイラストレーターで、サンドブルムは1931年から66年までの35年間、現在私たちが親しんでいるサンタ・クロースのイメージを描きつづけました。

彼の創造したサンタ像は、表情豊かで、親しみやすく、理解しやすいものでした。それはコーラの宣伝と相俟って、世界中にサンタ・クロースの新しい姿を浸透させました。

こうして、サンタ・クロースは故郷ミラから遠く離れたアメリカの地で、現在のような姿で定着することになりました。セント・ニコラス、クリス・クリングル、サンタ・クロースは、19世紀の中頃までにほとんど同一人物をさす言葉となり、言葉の進化の素晴らしい一例を示すことになったのです。

サンタ・クロースは、もはや発音すら「セント・ニコラス」ではなくなりました。「これはオランダ語に責任がある」とも言われていますが、言語学者たちの多くは、発音の変化はスイスで起こった、と指摘しています。スイスではこうした発音上の変化は普通なので、まずスイスでセントニコラスがジンタクラース (Sinterklaes) となり、それがオランダ語に入っのだということらしいです。



Haddon Sundblom によるサンタ・クロース
前にも書きましたが、アメリカでの俗名「クリス・クリングル (Kriss Kringle)」 は「クリスト・キントル (Krist-Kindl)」の変化したもので、ケルビムのような愛らしい子ども像が、陽気な太った老人のイメージに変貌しました。

こうした変化が何時起こったのか正確に指摘するのは不可能でしょうが、遅くともナストが絵を描いた1860年までに起こったことは確かです。ですから1860年には、「サンタ・クロース」という名前の人物が、もう身近に存在していたことになります。

ほっそりしていた聖人は、アメリカへ来てそうとう太ってしまいましたが、イメージも名前も民衆の好む方向へ取捨選択され、その過程で、他を圧する祝日の中心的存在となったと言えるでしょう。


次はいよいよ現代のサンタ・クロースのお話です


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