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※1999年12月30日に掲載した記事に加筆修正して再録

 

Column 9:
Birth of New Soul (1)

ニューソウルの誕生(1) ―新たな黒人音楽の先駆者たち [
前編]

*後編に進む*

 

  シンガーソングライター調のブラック・ミュージックをはじめて生み出したのは、70年代初頭のニューソウルと言われた流行でした。社会的関心と洗練された音楽的センスが重なって生み出されたこの流れには、ダニー・ハサウェイを筆頭に、マーヴィン・ゲイカーティス・メイフィールドスティーヴィー・ワンダーなども合流したと紹介されてきています。この動きを白人のシンガーソングライターたちの登場とも呼応する黒人側の動きと見る視点はこれまで皆無ではありませんでしたが、ここではさらに掘り下げて、ソウル・ミュージックと黒人の社会運動との関係を60年代に遡って紐解きながら、背景を探っていくと共に、今でも根強い人気のある音楽の魅力を語ってみたいと思います。ニーナ・シモン、ダニー・ハサウェイを取り上げ、そして長い闘病生活の末に1999年12月26日亡くなったカーティス・メイフィールドに哀悼の意をこめてトリビュートします。

60年代ソウルと黒人運動

60年代のソウル・ミュージックの状況を概観する前に、その後に出てくるニューソウルがいかなる意味で「ニュー」だったのかを簡単に整理しておくと、比較しやすくなると思います。ジャンル分けの常で正確に峻別することはできませんが、ニューソウルと言われた音楽には、大体次のような傾向がありました。

(1)社会問題に対する関心がよみとれる
(2)ブラックシンガー本人の個性が曲に反映し、アーティストとしてのアイデンティティの発達がみられる
(3)ジャズやフォークの影響を感じさせ、ダンスしやすいビート感にしばしば乏しい

逆に言えば60年代半ばまでに確立した、従来のソウル・ミュージックは、典型的には

(1)社会問題にはあまり直接的な言及はしない
(2)曲作りはライター、バックミュージシャン、プロデューサーに任せて、シンガーは基本的に歌唱に専念する
(3)曲に合わせて体を揺り動かせるソウル・ダンスか、愛を題材にした切ないバラードが基本的なスタイルである

という特徴を持つようになっていたわけです。そこで以下、この各点に注目しながら、60年代のソウルを考えてみます。

60年代はアメリカにおいて黒人を取り巻く環境が激動を迎えた時代でした。公民権運動からブラックパワー運動まで連なる、一連の黒人の地位向上を目指す様々な形態の運動はアメリカ社会に深い影響を残しましたし、黒人の経済状態も大きく変化しました。そうした中で聴衆に強いアピールのあるポピュラー音楽が大きな社会的役割を果たしたとしても不思議はないのですが、よく見直してみると、実際には60年代末までソウル・ミュージックは社会問題と直接関係を持つことにはごく及び腰だったことが分かります。ソウルの創始者の一人レイ・チャールズを例にとってみましょう。チャールズは62年に、オーガスタで行う予定だった公演が人種を分離して行なわれると聞いて、弁償を求められるのを承知で出演をキャンセルしたように、早くから人種平等へのコミットメントを行動に表した人物でした。白人にも人気があってキャリアが確立しているチャールズにして出来た勇気ある行動でしたが、そのチャールズにして、黒人運動からはかなり距離をとっていました。曲に政治的なテーマや人種問題を書くことはほとんどありませんでしたし、公民権運動の団体に関わったり、関連のコンサートに参加することはありませんでした。Sidney Poitier, Harry Belafonte & Charton Heston during March on Washington彼ほど独立したステータスのなかった他の黒人シンガーはなおさら、公民権運動と関わることは稀でした。もちろんこのことは、チャールズの歌と存在そのものが、多くの黒人の精神的な支えになったことを否定するものではありません。ゴスペル色の豊かな歌声に心を揺り動かされ黒人としてのアイデンティティを喚起されることもあったでしょうし、南部州ジョージアから出てきて、盲目の黒人という社会的ハンディを背負いながら、貧困と、後にはドラッグとアルコール中毒を乗り越えて自分の道を切り開いてきたチャールズの生きざまが励ましになったはずです。

公民権運動のリーダーが主催するイベントに出演し、街頭のデモ行進に参加するといった、明白な抗議行動は、ほとんどのソウル・シンガーには期待できませんでした。期待できたのは、ピート・シーガーピーター・ポール&マリージョーン・バエズボブ・ディランといった白人のフォーク・シンガーたち、あるいは黒人でもハリウッドで活躍していたサミー・デイヴィス・ジュニアシドニー・ポワチエハリー・ベラフォンテなどでした。1963年8月にワシントンで公民権運動の大行進が行われたとき、これらの人々のほかに参加したのは、バート・ランカスター、マーロン・ブランド、ポール・ニューマン、カート・ダグラスといった白人のハリウッド俳優たちで、ソウル・シンガーは一人も参加していません。(左はそのときの写真;左から、シドニー・ポワチエ、ハリー・ベラフォンテ、チャールトン・へストン) その理由は明白で、これから商業的に成功したいと頑張っているソウル・シンガーたちは、目に見えて政治的な行動をとることでキャリアを脅かすことを恐れたのでした。彼らの目標はR&Bチャートでヒットを出すことだけではなく、最終的には白人をターゲットにしてポップ・チャートでヒットして、文字通り全国的なスターになることでしたから、レコードが売れなくなる、プロモーターに避けられる、メディアに出演できなくなるといったリスクを冒すことは避けざるを得なかったのでした。そんな中でも例外的にジャッキー・ウィルソンニーナ・シモンカーティス・メイフィールドといった、黒人運動に積極的に肩入れした人々、いわばブラック系シンガーソングライターの先駆けともいうべき人々がいますが、彼らについては後で述べます。

黒人シンガーとレーベルの姿勢

黒人シンガーが社会問題の関与しようとする態度が概して個人的に希薄だっただけでなく、当時のソウル・ミュージックをリードするレコード会社の姿勢は、社会問題にシンガーがコミットすることに対して、否定的とまではいわない場合も、あまり積極的ではありませんでした。それは60年代に最も影響力を持ったソウル・レーベル、モータウンが典型的にそうでした。ベリー・ゴーディがデトロイトに創立したモータウンは当時のアメリカではごくわずかしかなかった黒人が経営するレコード会社の代表格でしたが、その彼らこそが黒人の社会運動とは最も自覚的に距離を置いていました。米北部発のソウルをリードしたモータウンの公式は、簡潔に言えば、ダイナミックなドラミングでダンサブルなビート感を強調しながら、分かりやすい歌詞とメロディーを提供すること。もちろんベリー・ゴーディは、デトロイトの黒人社会を背景に黒人オーナーのレコード会社を経営していくことに誇りを持っていましたが、彼が目指していたのは黒人社会の窮状を明らかにすることではなく、フィル・スペクターの後に続く次世代の「アメリカのサウンド」を生み出すことでした。ここには経営者としての、レコードはヒットしなければ意味がないという徹底した哲学があるだけでなく、白人にも受け入れられる黒人音楽を創り出すことで人種を融合するクロスオーヴァーを実現できるという、自信に満ちた楽観がありました。ゴーディはその方針を、「我々は総合的なマーケットで売り出した会社だった。ブラックだろうが、ホワイト、グリーン、ブルー、どんな人間でも、我々の音楽に共感を持てた。」と表現しています。

The Supremes64年から69年の間にポップ・チャートで25曲のヒット、うち12曲が1位という成功を収めたシュープリームズ(写真)は、このモータウンの哲学を典型的に体現したグループでした。モータウンがデトロイトというモーター・シティが育んだ大量生産のノウハウをヒット曲製造に採り入れたというのはしばしば指摘されることですが、曲の発案から完成に至る全工程が、例えば同じ曲を複数のグループに歌わせて競わせるとか、最終的にある曲をリリースするかどうかを社員の投票で決めるといった徹底した品質管理の下に置かれ、間違いのなく「モータウン印」に規格統一された製品を生み出す工程を開発しました。そして、その一押しのヒット商品に育ったのが、シュープリームズでした。ゴスペルを下地にしていてもストリングスとホーンですっかり洗練された音、あまりに目立つドラミングで強調されたダンサブルなリズムに加えて、リード・シンガーのダイアナ・ロスの声は吐息のように軽くこぎれいで黒さは薄まっている・・・これが黒人音楽をアメリカの白人たちも好んで口ずさむ人種を超えたヒット・パレードに変えた公式でした。そして男性のコーラスグループも、50年代に白人市場で売れた黒人歌手たちの伝統を引き継いで、蝶ネクタイにタキシードという上品ないでたちで公衆の面前に立ちました。

こうして黒人音楽という限定なしで60年代を代表するサウンドとして記憶されることになったモータウンですが、このあえて黒さを抑えて商業的成功を追求する姿勢は自覚的に選択されたものでした。ミラクルズで成功し、経営陣にも加わったスモーキー・ロビンソンの言葉が端的にそのことを証明しています。「自分は黒人であることを誇りに思っている、それは確かだが、ステージはそのことについて説教する場所ではないと思う。」 モータウンの視線が、ストリートの黒人ではなく、ハリウッドの娯楽業界に向いていたことは、黒人のアイデンティティを強調する立場からは当然批判の対象になってきましたが、ベリー・ゴーディたちは自分たちの方法こそ、黒人の社会での発言力を向上させる現実的な方法だと思っていました。黒人レーベルがアメリカの体制のなかで認められる成功を収めることで黒人に自信を与えるサクセス・ストーリーを創り出しているという意識があったのです。この姿勢は、60年代半ばのアメリカの黒人に一時訪れた一種の楽観的なムードとも呼応していました。50年代に始まり、63年のワシントン大行進でピークを迎えた公民権運動は64年の一般公民権法、続く65年の投票登録や住宅に関する黒人差別撤廃を定める法律で、一応の成果を収めていました。少なくとも法的には人種差別が禁止され、とくに北部では白人のリベラルな勢力の協力を得れば黒人の状況をさらに改善できるという、漸進的な体制内改革に対する期待が高まっていました。モータウンがアメリカの主流の娯楽業界の枠からはみ出ない方針でも黒人のリスナーの支持を失わずに済んだのは、こうした背景があったからでした。1966年以前にモータウンが公民権運動の黒人団体に資金援助を行った形跡は一つもなく、運動とのわずかな接点といえば、63年のアポロ劇場でのベネフィット・コンサートへのスティーヴィー・ワンダーの出演、63年のマーチン・ルーサー・キング牧師の有名な"I have a dream"演説を収めたアルバムの発売、65年の"Americans in Harmony"というベネフィット・コンサートの公演記念ブックの制作協力ぐらいのものでした。

サザン・ソウルの場合

モータウン・サウンドの公式のなかでは、黒人シンガーたちが個性を主張できる余地はごく少なかったとすれば、60年代ソウル・ミュージックをリードしたもう一つの核、サザン・ソウルはどうだったのでしょうか。ゴスペルやブルースのルーツをより色濃く感じさせ、ディープにシャウトしむせび泣く赤裸々な唱法で、モータウンをはじめとするメインストリームのソウル・ミュージックよりもずっと生々しく黒っぽいフィーリングを出していたサザン・ソウルは、黒人の聴衆の「魂」を揺さぶる真摯な表現で聴衆の感情移入を誘う力がありました。しかし、社会的な問題に対するステートメントは、このサザン・ソウルの場合にもほとんど見られなかったのが実情です。60年代サザン・ソウルの巨人、オーティス・レディング(写真)は、あるときは愛の激情に駆られた精力的な男("Love Man")、またあるときは愛の苦しみに打ちのめされた苦悩する男("Pain in My Heart")という激しく揺れる男の気持ちを、ダイナミックな人間的な表現でぶつけてくるのが魅力であって、そこには社会を見つめて内省するまなざしが育まれる余地はなかったのです。だからこそ尚更、"(Sittin' On) The Dock of the Bay"で立ち止まって海を見つめるような姿勢を見せたときに、それまでのレディングのイメージと違うと感じられ、まるでこの収録直後に訪れた不慮の死を予感していたかのように読み込まれてしまう結果になったのでした。

Otis Reddingそもそも当時のサザン・ソウルのレーベルは、社会問題に対する認識は希薄で、純粋にいい音楽を創り出してヒットさせたいという態度だったとみてよいでしょう。ここにはベリー・ゴーディのような黒人社会への寄与という自負もありません。ただこれらのレーベルは現実には、当時の黒人を取り巻く社会環境に照らしてみると、かなり革新的な状況を実現していました。サザン・ソウルのメッカの一つマッスル・ショールズのフェイムは、白人が経営から作曲・演奏までを担当するスタジオ兼レーベルとして始まりましたが、これはメンフィスでも事情は同じでした。サザン・ソウルを代表するスタックスの経営者は白人、そのもとで作曲や演奏を担当した面々にも、スティーヴ・クロッパードナルド・ダック・ダンを代表にかなり白人が加わっていました。それはメンフィスの他の代表レーベルだったハイ、ゴールドワックスにしてもほぼ同じ状況でした。後に人種間の摩擦が再び厳しくなっていく中で、スタックスも、親会社になったアトランティックも、黒人を使ってあこぎな商売をしているという批判を浴びせられますが、サザン・ソウルの確立に関係した白人たちに、黒人音楽に対する素朴なまでに真摯なコミットメントがあったことは否めません。ビジネスの要素があったのは当然としても、ブルースとゴスペルの伝統が体に染み付いた、ソウルフルな黒人歌手たちに対する敬愛の情が随所に垣間見れるのが、全盛期のサザン・ソウルを支えた白人たちの態度でした。この人種を超えた協力についてブッカー・Tは「スタックスで好きだったのは、すっかり融合していたことだよ」と語り、マッスル・ショールズ、次いでメンフィスに居を構えたアメリカン・スタジオで活躍したダン・ペンも「僕たちのリズム&ブルースの秘訣は、黒人と白人が交じり合っていることにあった」と懐かしく回想しています。(コラム第3回を参照。)

当時の米南部といえば白人の黒人社会に対する態度はまだまだ保守的で、黒人歌手も多くは小作人家族の出身であるなど社会的にも格差は歴然としていました。そのなかにあってこれらの南部ソウル・レーベルの内部の環境はごく特殊な協調体制であり、しばしばより「正統」なソウルとみなされるサザン・ソウルに白人の寄与が大きかったことは興味深い事実です。このことは白人はカントリー、黒人はブルースと峻別されていた伝統の壁を打ち破る新たなシンボルとなりえる現象だったわけですが、しかし実際にはレーベルの外の社会に向けて浸透していくような波及効果はありませんでした。彼らの生み出した音楽を受け止める側からみれば、黒人は感情移入することはあっても、それは社会的影響を促すような性質のものではありませんでしたし、白人がサザン・ソウル・シンガーの歌声から聴き取ったのは、あくまで熱くシャウトたり気取りを捨てて嘆き悲しんだりする多感な人間たちとしての黒人のイメージであって、この肉体的・感情的なイメージには、シンガーが一個の人間として自分と社会について思い巡らし語っているというような内省的・知的な音楽という扱いは毛頭存在しなかったのです。アーティストの方もその辺りは意識していて、サザンソウルで白人市場へのクロスオーヴァーにはじめて成功したオーティス・レディングは、こうした熱く燃える人格を積極的に演じていた節があります。レディングは初めてニューヨークのアポロ劇場に呼ばれたときに、予算の都合で飛行機ではなくバス旅行を強いられたわけですが、このときステージに立っていない普通の黒人の立場に置かれた自分が、決して恵まれた待遇を受けず、回りの乗客の誰も、そこに座っている黒人がレコードで歌っているあのオーティスだとはおよそ信じないという体験をしました。これ以降、彼は移動は常に飛行機を使うことに決め、皮肉にもそのことが悲劇の最期につながるのですが、こうした個人的体験を自分の音楽に結ぶつけることは、レディング自身考えず、常にエンターテイナーとして人々が楽しみ共感できる音楽を作り、演じることを追求したのです。

社会的関心を歌にこめた初期のシンガーたち

このように60年代に勃興したソウル・ミュージックは、同時期に高まった黒人の人権平等化の動きに対しては、北部でも南部でも概して距離を置いていたのが現実でした。その中にあって、60年代前半から半ばというまだ早い時期から、黒人の権利運動と接近したアーティストたちがいました。もちろん歌詞が間接的に社会的関心を感じさせるというレヴェルであれば、サム・クックは1964年に「変化は訪れる」とじっくりと歌い上げましたし("A Change Is Gonna Come")、ジョー・テックスも1965年に「俺は頭を殴られ、死ぬまで放っておかれた/俺はいじめられ、非難された/俺は1枚のパンももらえなかった/・・・/それでもいつも俺は微笑んで謝っていなきゃいけないんだ」と憂えました("The Love You Save May Be Your Own")。ソウルの源流になったゴスペルの伝統を考えれば、苦しむ人々の救済を呼びかけ、愛を分かち合おうとする態度が出てきてもそれほど不思議はないのですが、これらの歌詞が人種や社会問題に直接言及してはいないことには注意する必要がありますし、すでに明らかにしたように、その彼らも現実の運動に対してはコミットしませんでした。

Jackie Wilsonしたがって、端正な容姿で白人聴衆を意識したポピュラーなR&Bを送り込んでいたジャッキー・ウィルソン(写真)が、60年代初めから黒人人権団体の主催のコンサートにしばしば出演し、団体の表彰も受けていたことはなかなか革新的なことでした。そもそも歌唱自体が、持ち前のオペラ的なヴィブラート・ヴォイスをベースにしながら、いかにも明るい都会的なポップスから、時折見せるディープなゴスペル感覚までの振れ幅のあったことは、彼の置かれた立場がいかに微妙なものであったかを物語っています。白人マネジャーと白人レーベルのブランズウィックの方針はセクシーでかつ歌えるウィルソンに白人市場を狙わせようという、ひどく保守的な営業姿勢でしたから、そのくびきを逃れて少しでもウィルソン個人の人格を自分のキャリアに投影させようとするのは、非常に困難を伴うものだったこは想像に難くありません。ウィルソンが1965年に"No PityIn the Naked City"を書いてあまりにセンチメンタルに「この都会は冷たい街だよ/一人ぼっちでお金もないと/・・・/助けてくれないか」と高い歌声を張り上げたとき、レーベルの期待に背いてそれまでのウィルソンの実績からみると失敗に終わりましたが、ここには都会の黒人のおかれた状況を見つめるウィルソンのまなざしが確かに存在しました。

ヒットスターとしての制約にはばまれながら何とか黒人運動に関与する姿勢を示そうとしていたウィルソンと比べると、ニーナ・シモン の場合は、より目に見える形で独自の主張を貫いていた例外的存在でした。すでに60年代の初めに社会的関心を強めたシモンは、彼女自身の言葉によれば「白人が支配する国に住む黒人で、男性が支配する世界に住む女性」という2つのアイデンティティに目覚めて、この頃から歌詞にも現実世界に対する批判眼が織り込まれるようになりました。彼女のこうした変化を感じさせる最初の作品となったのは、"Mississippi Goddam"した。公民権運動の若きリーダーだったメドガー・エヴァンズが撃ち殺されたのが、1963年6月12日。この出来事はまもなくマーティン・ルーサー・キングの率いるワシントン大行進、そして翌年の公民権法成立へと結びついていく契機になりましたが、シモン個人もまたこの事件の理不尽さには怒りを抑えられず、その怒りを歌にこめることにしたと言います。

「猟犬が歩き回って/児童は牢屋に/黒猫が前を横切る/毎日今日こそ私の最期だと思うの」「神様、この人間の大地に慈悲を施して下さい/私たち皆がしかるべきときに報われるはず/でも私はここでは外れ者/お祈りを信じることさえ止めてしまったわ」「『あせるな』って言うけど・・・窓洗いをして/(遅すぎる)/綿花を摘んで/(遅すぎる)/腐った生活をして/(遅すぎる)・・・自分がどこに行くのか/何をやっているのか/わかりゃしない」「欲しいものはただ平等だけ/シスターとブラザー、人々と私と」「もう長い間嘘をつかれてきたわ/耳を洗って出直せなんて言われてね」「この国は嘘だらけ/皆ハエのように死んでいくのよ」「もう信じないわ/『あせらないで、ゆっくり』なんて言われても」「漸進的にやるなんて/結局もっと悲劇をもたらすだけ」

「この曲の名前は『ミシシッピー・くそくらえ』って言うの。一言一句が本気よ。」という導入や、途中の「これはショー・チューンとして書いたんだけど、まだそのショーの方はないのよ。」といった語りや、ズンチャズンチャというピアノのリズムでかなりユーモラスにも聞こえるように出来ているのですが、歌詞の赤裸々なプロテスト表現はブラック・ミュージックの歴史の中では非常に革新的でした。自ら鍵盤を叩きながら、飾らない大声量の歌唱で繰り出していく言葉は、ゴスペルの伝統を引き継いだ観客の反応を積極的に煽るアピールがあります。この曲は反響を得ましたが、保守的な南部では神を冒涜するという批判を受け、一部のレコード屋からはレコードをすべて叩き割って返品してくることもありました。63年以降、シモンは全米各地の黒人運動を支援するベネフィット・コンサートの常連になり、その過程で"Mississippi Goddam"は運動のテーマ曲のような扱いすら受けるようになりました。ただこの曲には弾き語りの名手とも呼ばれる彼女の繊細な音楽的魅力はよく表われていないとすれば、この後時間を経て、その音楽性と社会的関心が結びついて洗練された音楽に結実していくことになります。

まもなく、彼女はゴスペル系を除けばほとんど例外的に、黒人運動に積極的に関与した黒人歌手として知られるようになりました。行進やイベントには進んで参加し、自分が招かれていないコンサートにはみずから申し出て出演したほどでした。彼女が説得力のあるピアノと歌声に乗せて、自らを投影させながら女性の生き方を歌いかけたことで、インスピレーションを受け鼓舞された黒人はかなりいたようです。例えば65年のオリジナル曲"Four Women"では黒人女性をはじめとする有色の女性たち4人が順に自己紹介するという形をとって、それぞれの苦難の生き方を思わせる語りが続きます。哀愁もただようスローテンポの曲調は、シモンの土臭い歌声をよく引き立てています。

Nina Simoneシモンの得意とするのは、アコースティックなピアノに飾らない乾いた歌声でじっくり歌い聴かせるタイプの曲で、60年代の典型的なソウル・ミュージックとはかなり異なった魅力を披露しています。もちろんソウルの歴史を語る文脈でシモンが言及されることはほとんどなく、現在のジャンル分けではシモンはジャズ・ヴォーカルとされているわけですから、典型的なソウルとは趣きを異にしているのは当然かもしれません。もちろん女性のジャズ・ブルース・ヴォーカルの伝統はしっかり受け継いでいるとはいえ、そちらの文脈においてみても、この揺るぎない問題意識の表現は前例をみません。同時代のソウルシンガーはほとんどがレーベルの拘束と市場の制約から曲を通じて意思表示をすることは難しく、そもそもソウル・ミュージックはそうした私的な意味合いがあるものとは考えられていなかったのに対して、シモンはそのような配慮に妨げられることなく果敢に個人の名前で自分の社会的関心を音楽活動に投影させることができました。ソウルの世界にはまだ、自分で曲を書いて発表するようなアーティストは、カーティス・メイフィールドのような偉大な例外を除けば、かなり少数だったのです。本流のソウルに60年代末になってやっと登場する傾向を、60年代半ばという早い時期からシモンが独立して展開できたのは、やはりソウルの音楽産業から距離を置くことができたからで、したがって後続への影響を与えるようなムーヴメントは起こしませんでした。シモンのファン層自体が、ソウルの確立を支えた購買層とはずれていて、黒人ならインテリ層か政治的関心の強かった人々、それ以外はジャズやブルースのマニアの白人で、その大半は北部の大学生やまもなく急増するヒッピーたちでした。

シモンの音楽は、そのシンガーソングライター的な姿勢だけでなく、本流のソウルに特徴的な、踊りを誘うような熱い躍動感がなくメロウであることにも、ニューソウルの先駆けと呼んでもよい特徴が表われています。興味深いのは、シモンはもともとはクラシックのピアニストの教育を受けてニューヨークにある名門のジュリアード音楽院の卒業生であることで、後にニューソウルの旗手と呼ばれたダニー・ハサウェイもまたクラシックの素養があるという共通点があります。最初はピアニストとしてナイトクラブ付きの弾き手のオーディションを受けたシモンですが、歌を歌って弾き語るなら採用すると言われて、いわば偶然にして歌手デビューしました。59年のヒットでガーシュウィン作の"I Loves You Porgy"をはじめとして、大人向けのヴォーカルの分野で、スタンダード・ジャズ、フォーク・ソング、映画音楽などを独自の解釈で弾き語るスタイルで有名になりましたから、後に自分のオリジナル曲に黒人女性としての自分の個人的体験を投影させていくようになってからも、メロウなピアニストとしての腕前が随所に反映し、アコースティックでジャジーな曲調を発展させていきました。ジャズ・ヴォーカルのジャンルに収まりきれず、後のニューソウルの登場まではソウル・ミュージックにも類するものが少なかった自分の音楽について、シモン自身は「あたしは黒人ならこういう音楽をやるべきだっていう白人が決め込んだ考えにはあてはまらなかったわ。それは人種差別的な考え方だもの。」と語っています。このシモンの言葉は、その頃生まれつつあった典型的なソウルないし黒人のイメージ、つまりセクシーな黒い肌、喜怒哀楽を包み隠さずに表現する生生しさといった評価が、多分に作る側と買う側にいた白人たちを通じて形成されたものであることを鋭く指摘しています。

ソウルの政治化の時代

歌を通じて黒人の覚醒を早くから唱えていたとしても、決して暴力の使用も容認するようなラディカルな立場はとっていなかったニーナ・シモン"Revolution"を歌い出したのが67年頃、時代は明らかに変化を遂げつつありました。公民権諸法の成立で一応の成果を得た黒人運動でしたが、アメリカ社会における人種平等を現実のものにするにはまだ壁が立ちはだかっていることがほどなく気づかれ、人種融和に対する楽観的な夢は幻滅へと変わっていきました。法律改正を含む穏健な路線での社会改革に対する黒人の失望が募ったのは、一つにはベトナム戦争の影響がありました。この戦争でアメリカは予想しなかった多大な犠牲を払いますが、徴兵され戦場で亡くなるアメリカ人に黒人の割合が不釣り合いに多かったことは、黒人を虐げている印象を与えました。確かに、所得分配を見てみると中産階級に位置する黒人人口は60年代の間に2倍に増え、南部での黒人の投票登録や公務員に選任される黒人の数も飛躍的に増えました。しかし表向きの差別はなくなっても、社会的に不利な立場におかれ続けて来たことにより長年にわたって蓄積された問題は、すぐには解決する見込みがないことが悟られました。黒人の身近な生活は相変らず、住居の不足、教育機会の不足、貧困と失業といった苦境に苛まれたままだったのです。そしてアメリカ社会全体の雰囲気も手伝って政治的に覚醒した黒人たちは、これらの問題を積極的に疑問視するようになったのでした。

黒人のアフリカ・ルーツが強調され、ブラック・イズ・ビューティフルというスローガンが声高に叫ばれる中、従来の非暴力主義的な運動路線とは一線を画して、自衛のためには暴力も必要とするブラック・パンサー党、革命行動運動などの私兵的な団体も登場してきました。暴力主義は排してあくまで人種融和を目標としていたマーティン・ルーサー・キングにして、60年代後半に打ち出した目標は社会を経済的・政治的に抜本的に改革しようとする、急進的なものになっていました。この時代の風潮には、ソウル・ミュージックも無縁ではいられませんでした。音楽がどう受け止められるかは、作り側の問題だけでなく、聴衆の意識の問題もあるわけで、この時期になるとソウルの歌詞は作り手の意図を越えて社会的意味を読み込んで聴かれるようになりました。例えば65年のナンバー1ヒットになったリトル・ミルトン "We're Gonna Make It"は、ミルトンのソウルフルな歌声とホーンをフィーチャーしたアーバン・ブルースで、「たとえ毎日豆しか食えなくなっても/俺たちは切り抜けていこう」という苦難を乗り越えて成就する愛の力を歌った曲ですが、この曲が黒人運動を障害にめげずに推進していくための讃歌として注目され、そのことにはミルトン本人が驚かされました。また、政治からはもっとも遠いと目されていたモータウンの稼ぎ頭、マーサ&ザ・ヴァンデラズ でさえ、社会改革を示唆していると読み込まれるようになります。64年発表の代表曲"Dancing in the Street"はアメリカ各地の黒人が多く住む都市の名前を挙げながら踊りを煽る曲ですが、高揚感が黒人の連帯を促すというだけでなく、その中に「夏がやってきた」という歌詞があるだけで、当時夏によく勃発した黒人暴動を示唆しているように理解されたのでした。

Aretha Franklinこの点でもっとも象徴的だったのは、アレサ・フランクリン(写真)の"Respect"だったと言っていいでしょう。この曲自体はすでに65年にオーティス・レディングがヒットさせていて、このオリジナルのドタバタした高揚感はなかなか捨てがたいのですが、何と言っても時代と共鳴したフランクリンのヴァージョンのインパクトは甚大でした。67年に発表され、映画『ブルース・ブラザーズ』でも歌われたこの有名曲の歌詞は、「あたしの有り金は全部あげる/お返しにあたしが欲しいのは/きちんとリスペクトしてくれることだけなのよ」と、男女関係を歌っているようですが、黒人たちが求めているのはまさに社会からの「リスペクト」だという思いが託されて、この年の黒人運動のテーマ曲ともいえる扱いを受けました。確かに、ゴスペルのコーラスに支えられながらフランクリンの声が高く舞い上がるのは、まるで黒人の気高き精神性を称えているようにも聞こえます。彼女がデトロイト出身であることも、同じ年にデトロイト暴動での黒人意識の昂揚と共鳴しました。レディングの原曲と比べると、バックにキング・カーティスらのジャズメンが入っただけでなく、"R-E-S-P-E-C-T"と綴りをそのまま歌に乗せ、続いて「あたしにとってそれがどんなことか分かってよ!」と叫ぶのは、格好のアレンジとなりました。もちろんフランクリン自身は聴衆が自分の曲に感情移入してくれることは歓迎しながらも「でも皆が聴き取るものと、あたしが歌っているときに感じていることは、すごくすごくずれていることはありえるの。それを分かって欲しいと思うこともあるのよ。」と語っています。この曲はフランクリン本人にとっては、当時夫でマネジャーだったテッド・ホワイトとの辛い関係を投影させたものだったとも言われています。

こうして時代の変化の波は、それまで社会的関心を示すことに及び腰だったソウルのメジャー・レーベルやアーティストも否応無しに巻き込んでいきます。この頃になると黒人に売るには黒人意識にアピールしなければいけないという認識が広まりましたし、あまり政治色を出すと白人市場へのクロスオーヴァーが難しくなるという危惧も、黒人運動に共感をもってソウルやブルースのレコードに手を出す若い白人たちの登場であまり懸念の必要がなくなりました。歌詞に変化を加えたり、ソウル・チルドレンソウル・サヴァイヴァーズといったグループ名の付け方に表われたように「ソウル」という言葉を多用したり、アフリカン・ビートを採り入れたり、さらに見た目もそれまでのタキシードに蝶ネクタイというスタイルから黒人の日常生活を思わせるゲットー・スタイルに変えたり、という一連のアイデンティティを強調するアプローチがとられ始めたのも、この頃でした。白人中心社会にあって黒人の自立を目指す漸進改革派の象徴のような存在だったモータウンにして、時のブラック・パワーの勃興を意識した対応をとったのは、象徴的な出来事でしたが、モータウンについては回を改めて、次回詳しく述べます。

覚醒され流動化した黒人意識と結びついたソウル・ミュージックでとられた表現方法は、実際にはそれなりの振れ幅がありました。戦闘的なブラック・パワーの旋風に呼応するように、黒人の覚醒と連帯を積極的に煽るタイプの曲としては、もちろんまずはジェイムズ・ブラウンの一連のファンク・ナンバーがあります。"Say It Loud, I'm Black and I'm Proud"(1968年、R&Bチャート1位、ポップ・チャート10位)、"Soul Pride"(69年)、"Get Up, Get into It, and Get Involved"(70年)とこの時期次々と送り込んだナンバーは、トレードマークの歯切れのいいファンク・ビートで強烈に煽り立てるもので、特にヒットした"Say It Loud ..."は典型的にブラウンの掛け声に答えて、その他大勢が「俺(私)は黒人で、誇りがあるんだ」と合いの手を入れるという、一般の黒人が同化しやすい曲に仕上がっていました。アイズリー・ブラザーズのファンク路線の出発点となった"It's Your Things"(69年)も、「自分のことだよ/やりたいようにやるんだ/誰をぶちのめせばいいかは、言わなくても分かるだろ」という戦闘的な歌詞で、R&Bチャート1位になって彼らの最大のヒットになりました。

サザン・ソウルでは、ジェイムズ・カー はゴールドワックスから出した"Freedom Train"(68年)で「自由の列車がやってくるよ/あの汽笛が聞こえないかい?」とお得意のカントリー・ソウル系のアップテンポな曲調のメッセージ・ソングを送り出しましたし、その前にエディ・フロイドが、スティーヴ・クロッパーと共作した"Raise Your Hand"(67年)でより穏やかな表現ながら、「まだ手に入れていないものがあるなら、座り込んでいないで、立ち上がってこぶしを挙げるんだ」と言い聞かせるように歌いました。同じスタックスではゴスペル出身のファミリー・グループ、ステイプル・シンガーズが68年に出した"Respect Yourself"をヒットさせ、特にメイヴィス・ステイプルズのこぶしの効いたブルージーな歌声で「自分をリスペクトしなさい」と繰り返す部分は、アレサ・フランクリンの"Respect"と同様に、黒人の誇りを鼓舞する呼びかけとして受け止められました。このサザン・ソウルとジェイムズ・ブラウンとの間に位置するような、ルースでアーシーなファンクを聞かせたチャールズ・ライト&ザ・ワッツ・103rd・ストリート・リズム・バンドの最大のヒット曲"Express Yourself"(R&Bチャート3位、ポップ・チャート12位)も、特徴的なベースラインに乗せて「自分を表現するんだ」と説くものでした。

このような黒人の連帯に社会変革の可能性をみる数々の作品は、多かれ少なかれゴスペルの醸し出す共同体的な連帯感を支えにしていますが、スライ・ストーン の場合は同じくメッセージ性があるといっても、さらに別の次元から時代を見つめていました(第4回を参照)。サンフランシスコで育ち白人のヒッピー文化の誕生を近くで見ていたストーンは、地元で黒人ラジオ局のDJを始めたときにはビートルズボブ・ディランを紹介するほど、白人のロックに魅せられた青年で、その彼の創り出す音楽には、常に黒人と白人が手を携えて理想の社会を形成していこうという理念に満ちていました。フラワー・ムーヴメントに共鳴してロック・ビートを採り入れたファンクを繰り出していったストーンが唱えたのは、黒人の誇りということだけでなく、人種を越えた共生でした。69年の Stand! (CBS)に収められた"Everyday People"はこの考え方を明確に歌っています。「・・・肉屋だろうと、銀行家だろうと、ドラマーだろうと/どんな集団に属しているかは問題じゃないんだ/僕は日常を生きている人々の一人なんだ」「ウゥー・シャ・シャ/僕らは一緒に暮らさなきゃ/僕の方が偉いことなんてないし、君も同じだ/何をしてたって同じ人間なんだ」 ロック・ビートのこの曲はウッドストックで白人聴衆たちを乱舞させたスライ・ストーンの願いを如実に表していました。クロスオーヴァーの追求は、公民権運動が人種融和の夢に支えられていた時代が終わっていた60年代末では時代遅れになっていましたが、ストーンはそれを白人のフラワー世代との共闘という新しい形に生まれ変わらせたのでした。人種間の調和、肌の色を超えた兄弟愛を歌う普遍主義は、戦闘的なブラック・パワーの時代にはすでに似つかわしくないものでしたが、それでも積極的な行動主義をとったのは実際にはごく一部の黒人で、物言わぬ大半の黒人にはまだ穏健な改革路線への支持は消えていませんでした。その雰囲気はスライ・ストーンのように確信的ではなくても、ビル・ウィザーズ"Lean on Me"オージェイズ"Love Train"(72年)などが引き継いで、まもなくダニー・ハサウェイやスティーヴィー・ワンダーらの手によって新たな表現を与えられることになります。




<本文に登場する作品から>

Jackie WilsonThe Very Best of Jackie Wilson (1994) CDNOW
  ジャッキー・ウィルソン/ヴェリー・ベスト・オヴ・ジャッキー・ウィルソン
  ロカビリー、ポップスから、ビブラートの効いたハイ・テナーで歌い上げるナンバー、さらに後期のヒット作になった"Higher and Higher"まで、脂の乗っていた頃のジャッキー・ウィルソンを凝縮したコンピレーション。
Nina SimoneThe Best of Nina Simone (1969) CDNOW
  ニーナ・シモン/ベスト・オヴ・ニーナ・シモン
  60年代半ばのフィリップス録音のコンピで、シモンが音楽的に円熟し、社会運動にまい進した時期の簡潔な記録になっている。"Mississippi Goddam"、"Four Women"といった自作曲での思いをぶつけるような社会派の楽曲だけでなく、ガーシュウィンやカート・ヴァイル、あるいはジャック・ブレルといったスタンダード系の曲でのブルーな感覚を湛えた弾き語りは独自のものです。
Nina SimoneNina Simone and Piano! (1970; 1999) CDNOW
  ニーナ・シモン/ソウルの世界〜ニーナとピアノ Amazon.co.jp
  彼女のピアノをじっくり堪能するのはこちらの1枚を。ジャズやポップスの名曲をシモンの心にしみわたる弾き語りで聞かせます。ときに先進的なアレンジものぞかせます。99年のCD再発で4曲追加されました。
Little MiltonGreatest Hits (Chess 50th Anniversary Collection) (1997) CDNOW
  リトル・ミルトン/グレイテスト・ヒッツ
  ミルトンのチェス録音の魅力を1枚にまとめたのが、この編集盤。上述の"We're Gonna Make It"、ダニー・ハサウェイが制作に加わった"If Walls Can Talk"、あるいは「モナリザは男だった」という奇天烈なサビを、うねるベースに乗せて熱く歌う"Grits Ain't Groceries"など、豪勢なソウル・ブルースが詰まっています。
Martha & the VandellasThe Millennium Collection (1999) CDNOW
  マーサ&ザ・バンデラス/ユニバーサル・マスターズ・コレクション Amazon.co.jp
  モータウンの看板グループの1つだった時代のヒット曲をすべて収めた17曲入りの編集盤。
Aretha FranklinI Never Loved A Man The Way I Love You (1967) CDNOW
  アレサ・フランクリン/貴方だけを愛して
  アトランティックに移籍して大ブレイクしたアレサの文句なしの傑作。1曲目の"Respect"は上述の通り、黒人の魂を歌い上げた象徴的な作品という地位を獲得しました。絶妙の押しと引きで女性の気持ちを歌い上げたこの作品は、ソウル・ミュージックの確立を宣言したともいえます。ジェリー・ウェクスラーとトム・ダウドが統括し、ダン・ペン、チップス・モーマン、キング・カーティスらが関わった、当時のアトランティック・レコーズの精髄を集めた人材で作り上げられています。
James BrownSay It Live & Loud: Live in Dallas, 8/26/68 (1998) CDNOW
  ジェイムズ・ブラウン/セイ・イット・ライヴ&ラウド
  30年経って初めて日の目を見た68年のライヴ音源。圧倒的な創造力がみなぎっていた頃のブラウンが残した、音だけで当時のむせ返るような汗と熱気を伝えてしまうパワフルな記録。上述の"Say It Loud ..."の前には黒人に誇りを持てと語りかけるMCを行い、"I'm black"と唱和するよう観客にうながします。




<関連のリンク>

March on Washington: 1963年黒人の公民権運動のピークになったワシントン大行進の詳しい解説ページ(日本語)

The Jackie Wilson Gallery: ジャッキー・ウィルソンのファンサイト(英語)

Jackie Wilson @ Bluemoon's Elvis Collection Page: エルヴィス・プレスリー・ファンによる、ジャッキー・ウィルソンの紹介ページ(日本語)

Dr. Nina Simone -The Official Nina Simone Website: ニーナ・シモンの公式サイト(英語)

The Nina Simone Web: ニーナ・シモンの詳しいファンサイト(英語)

ニーナ・シモン@ピアノ・オン♪: ニーナ・シモンの紹介ページ(日本語)

 

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