![]() |
Updated on March 6, 2002 ※1999年12月30日に掲載した記事に加筆修正して再録 |
Column
9:
Birth
of New Soul (1)
ニューソウルの誕生(1) ―新たな黒人音楽の先駆者たち
[前編]
*後編に進む*
シンガーソングライター調のブラック・ミュージックをはじめて生み出したのは、70年代初頭のニューソウルと言われた流行でした。社会的関心と洗練された音楽的センスが重なって生み出されたこの流れには、ダニー・ハサウェイを筆頭に、マーヴィン・ゲイ、カーティス・メイフィールド、スティーヴィー・ワンダーなども合流したと紹介されてきています。この動きを白人のシンガーソングライターたちの登場とも呼応する黒人側の動きと見る視点はこれまで皆無ではありませんでしたが、ここではさらに掘り下げて、ソウル・ミュージックと黒人の社会運動との関係を60年代に遡って紐解きながら、背景を探っていくと共に、今でも根強い人気のある音楽の魅力を語ってみたいと思います。ニーナ・シモン、ダニー・ハサウェイを取り上げ、そして長い闘病生活の末に1999年12月26日亡くなったカーティス・メイフィールドに哀悼の意をこめてトリビュートします。 60年代ソウルと黒人運動 60年代のソウル・ミュージックの状況を概観する前に、その後に出てくるニューソウルがいかなる意味で「ニュー」だったのかを簡単に整理しておくと、比較しやすくなると思います。ジャンル分けの常で正確に峻別することはできませんが、ニューソウルと言われた音楽には、大体次のような傾向がありました。 (1)社会問題に対する関心がよみとれる 逆に言えば60年代半ばまでに確立した、従来のソウル・ミュージックは、典型的には (1)社会問題にはあまり直接的な言及はしない という特徴を持つようになっていたわけです。そこで以下、この各点に注目しながら、60年代のソウルを考えてみます。 60年代はアメリカにおいて黒人を取り巻く環境が激動を迎えた時代でした。公民権運動からブラックパワー運動まで連なる、一連の黒人の地位向上を目指す様々な形態の運動はアメリカ社会に深い影響を残しましたし、黒人の経済状態も大きく変化しました。そうした中で聴衆に強いアピールのあるポピュラー音楽が大きな社会的役割を果たしたとしても不思議はないのですが、よく見直してみると、実際には60年代末までソウル・ミュージックは社会問題と直接関係を持つことにはごく及び腰だったことが分かります。ソウルの創始者の一人レイ・チャールズを例にとってみましょう。チャールズは62年に、オーガスタで行う予定だった公演が人種を分離して行なわれると聞いて、弁償を求められるのを承知で出演をキャンセルしたように、早くから人種平等へのコミットメントを行動に表した人物でした。白人にも人気があってキャリアが確立しているチャールズにして出来た勇気ある行動でしたが、そのチャールズにして、黒人運動からはかなり距離をとっていました。曲に政治的なテーマや人種問題を書くことはほとんどありませんでしたし、公民権運動の団体に関わったり、関連のコンサートに参加することはありませんでした。 公民権運動のリーダーが主催するイベントに出演し、街頭のデモ行進に参加するといった、明白な抗議行動は、ほとんどのソウル・シンガーには期待できませんでした。期待できたのは、ピート・シーガー、ピーター・ポール&マリー、ジョーン・バエズ、ボブ・ディランといった白人のフォーク・シンガーたち、あるいは黒人でもハリウッドで活躍していたサミー・デイヴィス・ジュニア、シドニー・ポワチエ、ハリー・ベラフォンテなどでした。1963年8月にワシントンで公民権運動の大行進が行われたとき、これらの人々のほかに参加したのは、バート・ランカスター、マーロン・ブランド、ポール・ニューマン、カート・ダグラスといった白人のハリウッド俳優たちで、ソウル・シンガーは一人も参加していません。(左はそのときの写真;左から、シドニー・ポワチエ、ハリー・ベラフォンテ、チャールトン・へストン) その理由は明白で、これから商業的に成功したいと頑張っているソウル・シンガーたちは、目に見えて政治的な行動をとることでキャリアを脅かすことを恐れたのでした。彼らの目標はR&Bチャートでヒットを出すことだけではなく、最終的には白人をターゲットにしてポップ・チャートでヒットして、文字通り全国的なスターになることでしたから、レコードが売れなくなる、プロモーターに避けられる、メディアに出演できなくなるといったリスクを冒すことは避けざるを得なかったのでした。そんな中でも例外的にジャッキー・ウィルソン、ニーナ・シモン、カーティス・メイフィールドといった、黒人運動に積極的に肩入れした人々、いわばブラック系シンガーソングライターの先駆けともいうべき人々がいますが、彼らについては後で述べます。 黒人シンガーとレーベルの姿勢 黒人シンガーが社会問題の関与しようとする態度が概して個人的に希薄だっただけでなく、当時のソウル・ミュージックをリードするレコード会社の姿勢は、社会問題にシンガーがコミットすることに対して、否定的とまではいわない場合も、あまり積極的ではありませんでした。それは60年代に最も影響力を持ったソウル・レーベル、モータウンが典型的にそうでした。ベリー・ゴーディがデトロイトに創立したモータウンは当時のアメリカではごくわずかしかなかった黒人が経営するレコード会社の代表格でしたが、その彼らこそが黒人の社会運動とは最も自覚的に距離を置いていました。米北部発のソウルをリードしたモータウンの公式は、簡潔に言えば、ダイナミックなドラミングでダンサブルなビート感を強調しながら、分かりやすい歌詞とメロディーを提供すること。もちろんベリー・ゴーディは、デトロイトの黒人社会を背景に黒人オーナーのレコード会社を経営していくことに誇りを持っていましたが、彼が目指していたのは黒人社会の窮状を明らかにすることではなく、フィル・スペクターの後に続く次世代の「アメリカのサウンド」を生み出すことでした。ここには経営者としての、レコードはヒットしなければ意味がないという徹底した哲学があるだけでなく、白人にも受け入れられる黒人音楽を創り出すことで人種を融合するクロスオーヴァーを実現できるという、自信に満ちた楽観がありました。ゴーディはその方針を、「我々は総合的なマーケットで売り出した会社だった。ブラックだろうが、ホワイト、グリーン、ブルー、どんな人間でも、我々の音楽に共感を持てた。」と表現しています。
こうして黒人音楽という限定なしで60年代を代表するサウンドとして記憶されることになったモータウンですが、このあえて黒さを抑えて商業的成功を追求する姿勢は自覚的に選択されたものでした。ミラクルズで成功し、経営陣にも加わったスモーキー・ロビンソンの言葉が端的にそのことを証明しています。「自分は黒人であることを誇りに思っている、それは確かだが、ステージはそのことについて説教する場所ではないと思う。」 モータウンの視線が、ストリートの黒人ではなく、ハリウッドの娯楽業界に向いていたことは、黒人のアイデンティティを強調する立場からは当然批判の対象になってきましたが、ベリー・ゴーディたちは自分たちの方法こそ、黒人の社会での発言力を向上させる現実的な方法だと思っていました。黒人レーベルがアメリカの体制のなかで認められる成功を収めることで黒人に自信を与えるサクセス・ストーリーを創り出しているという意識があったのです。この姿勢は、60年代半ばのアメリカの黒人に一時訪れた一種の楽観的なムードとも呼応していました。50年代に始まり、63年のワシントン大行進でピークを迎えた公民権運動は64年の一般公民権法、続く65年の投票登録や住宅に関する黒人差別撤廃を定める法律で、一応の成果を収めていました。少なくとも法的には人種差別が禁止され、とくに北部では白人のリベラルな勢力の協力を得れば黒人の状況をさらに改善できるという、漸進的な体制内改革に対する期待が高まっていました。モータウンがアメリカの主流の娯楽業界の枠からはみ出ない方針でも黒人のリスナーの支持を失わずに済んだのは、こうした背景があったからでした。1966年以前にモータウンが公民権運動の黒人団体に資金援助を行った形跡は一つもなく、運動とのわずかな接点といえば、63年のアポロ劇場でのベネフィット・コンサートへのスティーヴィー・ワンダーの出演、63年のマーチン・ルーサー・キング牧師の有名な"I have a dream"演説を収めたアルバムの発売、65年の"Americans in Harmony"というベネフィット・コンサートの公演記念ブックの制作協力ぐらいのものでした。 サザン・ソウルの場合 モータウン・サウンドの公式のなかでは、黒人シンガーたちが個性を主張できる余地はごく少なかったとすれば、60年代ソウル・ミュージックをリードしたもう一つの核、サザン・ソウルはどうだったのでしょうか。ゴスペルやブルースのルーツをより色濃く感じさせ、ディープにシャウトしむせび泣く赤裸々な唱法で、モータウンをはじめとするメインストリームのソウル・ミュージックよりもずっと生々しく黒っぽいフィーリングを出していたサザン・ソウルは、黒人の聴衆の「魂」を揺さぶる真摯な表現で聴衆の感情移入を誘う力がありました。しかし、社会的な問題に対するステートメントは、このサザン・ソウルの場合にもほとんど見られなかったのが実情です。60年代サザン・ソウルの巨人、オーティス・レディング(写真)は、あるときは愛の激情に駆られた精力的な男("Love Man")、またあるときは愛の苦しみに打ちのめされた苦悩する男("Pain in My Heart")という激しく揺れる男の気持ちを、ダイナミックな人間的な表現でぶつけてくるのが魅力であって、そこには社会を見つめて内省するまなざしが育まれる余地はなかったのです。だからこそ尚更、"(Sittin' On) The Dock of the Bay"で立ち止まって海を見つめるような姿勢を見せたときに、それまでのレディングのイメージと違うと感じられ、まるでこの収録直後に訪れた不慮の死を予感していたかのように読み込まれてしまう結果になったのでした。
当時の米南部といえば白人の黒人社会に対する態度はまだまだ保守的で、黒人歌手も多くは小作人家族の出身であるなど社会的にも格差は歴然としていました。そのなかにあってこれらの南部ソウル・レーベルの内部の環境はごく特殊な協調体制であり、しばしばより「正統」なソウルとみなされるサザン・ソウルに白人の寄与が大きかったことは興味深い事実です。このことは白人はカントリー、黒人はブルースと峻別されていた伝統の壁を打ち破る新たなシンボルとなりえる現象だったわけですが、しかし実際にはレーベルの外の社会に向けて浸透していくような波及効果はありませんでした。彼らの生み出した音楽を受け止める側からみれば、黒人は感情移入することはあっても、それは社会的影響を促すような性質のものではありませんでしたし、白人がサザン・ソウル・シンガーの歌声から聴き取ったのは、あくまで熱くシャウトたり気取りを捨てて嘆き悲しんだりする多感な人間たちとしての黒人のイメージであって、この肉体的・感情的なイメージには、シンガーが一個の人間として自分と社会について思い巡らし語っているというような内省的・知的な音楽という扱いは毛頭存在しなかったのです。アーティストの方もその辺りは意識していて、サザンソウルで白人市場へのクロスオーヴァーにはじめて成功したオーティス・レディングは、こうした熱く燃える人格を積極的に演じていた節があります。レディングは初めてニューヨークのアポロ劇場に呼ばれたときに、予算の都合で飛行機ではなくバス旅行を強いられたわけですが、このときステージに立っていない普通の黒人の立場に置かれた自分が、決して恵まれた待遇を受けず、回りの乗客の誰も、そこに座っている黒人がレコードで歌っているあのオーティスだとはおよそ信じないという体験をしました。これ以降、彼は移動は常に飛行機を使うことに決め、皮肉にもそのことが悲劇の最期につながるのですが、こうした個人的体験を自分の音楽に結ぶつけることは、レディング自身考えず、常にエンターテイナーとして人々が楽しみ共感できる音楽を作り、演じることを追求したのです。 社会的関心を歌にこめた初期のシンガーたち このように60年代に勃興したソウル・ミュージックは、同時期に高まった黒人の人権平等化の動きに対しては、北部でも南部でも概して距離を置いていたのが現実でした。その中にあって、60年代前半から半ばというまだ早い時期から、黒人の権利運動と接近したアーティストたちがいました。もちろん歌詞が間接的に社会的関心を感じさせるというレヴェルであれば、サム・クックは1964年に「変化は訪れる」とじっくりと歌い上げましたし("A Change Is Gonna Come")、ジョー・テックスも1965年に「俺は頭を殴られ、死ぬまで放っておかれた/俺はいじめられ、非難された/俺は1枚のパンももらえなかった/・・・/それでもいつも俺は微笑んで謝っていなきゃいけないんだ」と憂えました("The Love You Save May Be Your Own")。ソウルの源流になったゴスペルの伝統を考えれば、苦しむ人々の救済を呼びかけ、愛を分かち合おうとする態度が出てきてもそれほど不思議はないのですが、これらの歌詞が人種や社会問題に直接言及してはいないことには注意する必要がありますし、すでに明らかにしたように、その彼らも現実の運動に対してはコミットしませんでした。
ヒットスターとしての制約にはばまれながら何とか黒人運動に関与する姿勢を示そうとしていたウィルソンと比べると、ニーナ・シモン 「猟犬が歩き回って/児童は牢屋に/黒猫が前を横切る/毎日今日こそ私の最期だと思うの」「神様、この人間の大地に慈悲を施して下さい/私たち皆がしかるべきときに報われるはず/でも私はここでは外れ者/お祈りを信じることさえ止めてしまったわ」「『あせるな』って言うけど・・・窓洗いをして/(遅すぎる)/綿花を摘んで/(遅すぎる)/腐った生活をして/(遅すぎる)・・・自分がどこに行くのか/何をやっているのか/わかりゃしない」「欲しいものはただ平等だけ/シスターとブラザー、人々と私と」「もう長い間嘘をつかれてきたわ/耳を洗って出直せなんて言われてね」「この国は嘘だらけ/皆ハエのように死んでいくのよ」「もう信じないわ/『あせらないで、ゆっくり』なんて言われても」「漸進的にやるなんて/結局もっと悲劇をもたらすだけ」 「この曲の名前は『ミシシッピー・くそくらえ』って言うの。一言一句が本気よ。」という導入や、途中の「これはショー・チューンとして書いたんだけど、まだそのショーの方はないのよ。」といった語りや、ズンチャズンチャというピアノのリズムでかなりユーモラスにも聞こえるように出来ているのですが、歌詞の赤裸々なプロテスト表現はブラック・ミュージックの歴史の中では非常に革新的でした。自ら鍵盤を叩きながら、飾らない大声量の歌唱で繰り出していく言葉は、ゴスペルの伝統を引き継いだ観客の反応を積極的に煽るアピールがあります。この曲は反響を得ましたが、保守的な南部では神を冒涜するという批判を受け、一部のレコード屋からはレコードをすべて叩き割って返品してくることもありました。63年以降、シモンは全米各地の黒人運動を支援するベネフィット・コンサートの常連になり、その過程で"Mississippi Goddam"は運動のテーマ曲のような扱いすら受けるようになりました。ただこの曲には弾き語りの名手とも呼ばれる彼女の繊細な音楽的魅力はよく表われていないとすれば、この後時間を経て、その音楽性と社会的関心が結びついて洗練された音楽に結実していくことになります。 まもなく、彼女はゴスペル系を除けばほとんど例外的に、黒人運動に積極的に関与した黒人歌手として知られるようになりました。行進やイベントには進んで参加し、自分が招かれていないコンサートにはみずから申し出て出演したほどでした。彼女が説得力のあるピアノと歌声に乗せて、自らを投影させながら女性の生き方を歌いかけたことで、インスピレーションを受け鼓舞された黒人はかなりいたようです。例えば65年のオリジナル曲"Four Women"では黒人女性をはじめとする有色の女性たち4人が順に自己紹介するという形をとって、それぞれの苦難の生き方を思わせる語りが続きます。哀愁もただようスローテンポの曲調は、シモンの土臭い歌声をよく引き立てています。
シモンの音楽は、そのシンガーソングライター的な姿勢だけでなく、本流のソウルに特徴的な、踊りを誘うような熱い躍動感がなくメロウであることにも、ニューソウルの先駆けと呼んでもよい特徴が表われています。興味深いのは、シモンはもともとはクラシックのピアニストの教育を受けてニューヨークにある名門のジュリアード音楽院の卒業生であることで、後にニューソウルの旗手と呼ばれたダニー・ハサウェイもまたクラシックの素養があるという共通点があります。最初はピアニストとしてナイトクラブ付きの弾き手のオーディションを受けたシモンですが、歌を歌って弾き語るなら採用すると言われて、いわば偶然にして歌手デビューしました。59年のヒットでガーシュウィン作の"I Loves You Porgy"をはじめとして、大人向けのヴォーカルの分野で、スタンダード・ジャズ、フォーク・ソング、映画音楽などを独自の解釈で弾き語るスタイルで有名になりましたから、後に自分のオリジナル曲に黒人女性としての自分の個人的体験を投影させていくようになってからも、メロウなピアニストとしての腕前が随所に反映し、アコースティックでジャジーな曲調を発展させていきました。ジャズ・ヴォーカルのジャンルに収まりきれず、後のニューソウルの登場まではソウル・ミュージックにも類するものが少なかった自分の音楽について、シモン自身は「あたしは黒人ならこういう音楽をやるべきだっていう白人が決め込んだ考えにはあてはまらなかったわ。それは人種差別的な考え方だもの。」と語っています。このシモンの言葉は、その頃生まれつつあった典型的なソウルないし黒人のイメージ、つまりセクシーな黒い肌、喜怒哀楽を包み隠さずに表現する生生しさといった評価が、多分に作る側と買う側にいた白人たちを通じて形成されたものであることを鋭く指摘しています。 ソウルの政治化の時代 歌を通じて黒人の覚醒を早くから唱えていたとしても、決して暴力の使用も容認するようなラディカルな立場はとっていなかったニーナ・シモンが"Revolution"を歌い出したのが67年頃、時代は明らかに変化を遂げつつありました。公民権諸法の成立で一応の成果を得た黒人運動でしたが、アメリカ社会における人種平等を現実のものにするにはまだ壁が立ちはだかっていることがほどなく気づかれ、人種融和に対する楽観的な夢は幻滅へと変わっていきました。法律改正を含む穏健な路線での社会改革に対する黒人の失望が募ったのは、一つにはベトナム戦争の影響がありました。この戦争でアメリカは予想しなかった多大な犠牲を払いますが、徴兵され戦場で亡くなるアメリカ人に黒人の割合が不釣り合いに多かったことは、黒人を虐げている印象を与えました。確かに、所得分配を見てみると中産階級に位置する黒人人口は60年代の間に2倍に増え、南部での黒人の投票登録や公務員に選任される黒人の数も飛躍的に増えました。しかし表向きの差別はなくなっても、社会的に不利な立場におかれ続けて来たことにより長年にわたって蓄積された問題は、すぐには解決する見込みがないことが悟られました。黒人の身近な生活は相変らず、住居の不足、教育機会の不足、貧困と失業といった苦境に苛まれたままだったのです。そしてアメリカ社会全体の雰囲気も手伝って政治的に覚醒した黒人たちは、これらの問題を積極的に疑問視するようになったのでした。 黒人のアフリカ・ルーツが強調され、ブラック・イズ・ビューティフルというスローガンが声高に叫ばれる中、従来の非暴力主義的な運動路線とは一線を画して、自衛のためには暴力も必要とするブラック・パンサー党、革命行動運動などの私兵的な団体も登場してきました。暴力主義は排してあくまで人種融和を目標としていたマーティン・ルーサー・キングにして、60年代後半に打ち出した目標は社会を経済的・政治的に抜本的に改革しようとする、急進的なものになっていました。この時代の風潮には、ソウル・ミュージックも無縁ではいられませんでした。音楽がどう受け止められるかは、作り側の問題だけでなく、聴衆の意識の問題もあるわけで、この時期になるとソウルの歌詞は作り手の意図を越えて社会的意味を読み込んで聴かれるようになりました。例えば65年のナンバー1ヒットになったリトル・ミルトン
こうして時代の変化の波は、それまで社会的関心を示すことに及び腰だったソウルのメジャー・レーベルやアーティストも否応無しに巻き込んでいきます。この頃になると黒人に売るには黒人意識にアピールしなければいけないという認識が広まりましたし、あまり政治色を出すと白人市場へのクロスオーヴァーが難しくなるという危惧も、黒人運動に共感をもってソウルやブルースのレコードに手を出す若い白人たちの登場であまり懸念の必要がなくなりました。歌詞に変化を加えたり、ソウル・チルドレン、ソウル・サヴァイヴァーズといったグループ名の付け方に表われたように「ソウル」という言葉を多用したり、アフリカン・ビートを採り入れたり、さらに見た目もそれまでのタキシードに蝶ネクタイというスタイルから黒人の日常生活を思わせるゲットー・スタイルに変えたり、という一連のアイデンティティを強調するアプローチがとられ始めたのも、この頃でした。白人中心社会にあって黒人の自立を目指す漸進改革派の象徴のような存在だったモータウンにして、時のブラック・パワーの勃興を意識した対応をとったのは、象徴的な出来事でしたが、モータウンについては回を改めて、次回詳しく述べます。 覚醒され流動化した黒人意識と結びついたソウル・ミュージックでとられた表現方法は、実際にはそれなりの振れ幅がありました。戦闘的なブラック・パワーの旋風に呼応するように、黒人の覚醒と連帯を積極的に煽るタイプの曲としては、もちろんまずはジェイムズ・ブラウンの一連のファンク・ナンバーがあります。"Say It Loud, I'm Black and I'm Proud"(1968年、R&Bチャート1位、ポップ・チャート10位)、"Soul Pride"(69年)、"Get Up, Get into It, and Get Involved"(70年)とこの時期次々と送り込んだナンバーは、トレードマークの歯切れのいいファンク・ビートで強烈に煽り立てるもので、特にヒットした"Say It Loud ..."は典型的にブラウンの掛け声に答えて、その他大勢が「俺(私)は黒人で、誇りがあるんだ」と合いの手を入れるという、一般の黒人が同化しやすい曲に仕上がっていました。アイズリー・ブラザーズのファンク路線の出発点となった"It's Your Things"(69年)も、「自分のことだよ/やりたいようにやるんだ/誰をぶちのめせばいいかは、言わなくても分かるだろ」という戦闘的な歌詞で、R&Bチャート1位になって彼らの最大のヒットになりました。 サザン・ソウルでは、ジェイムズ・カー このような黒人の連帯に社会変革の可能性をみる数々の作品は、多かれ少なかれゴスペルの醸し出す共同体的な連帯感を支えにしていますが、スライ・ストーン
|
*後編に進む*