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Updated on March 7, 2002 ※1999年12月30日に掲載した記事に加筆修正して再録 |
Column
9:
Birth
of New Soul (1)
ニューソウルの誕生(1) ―新たな黒人音楽の先駆者たち
[後編]
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ニューソウルの登場 アメリカ社会がもっとも流動化した混乱の60年代末が過ぎると、まもなくベトナム戦争も終結し、虚脱感のみが残されたのは、白人だけでなく黒人にも共通してみられた現象でした。白人音楽の世界では、ロックをよりどころにして社会変革に夢をはせた熱い幻想があっさり終わりを迎え、人々が癒しを求めるようになった時代に、ごく私的な体験や内面の揺らぎを自然体のアコースティックなサウンドに乗せていくシンガーソングライター・ブームが訪れます。そしてこの「個」の時代の到来はまた、黒人音楽にも共通した流れでした。ソウル・ミュージックの政治への対応は上に述べたように、黒人の集団的紐帯を強調するか、もっと枠を広げて人種を横断した普遍的な連帯を唱えるかのいずれかが大半でしたが、70年に入ると、兄弟愛に支えられた連帯感への幻想を捨てて、黒人のおかれた窮状を冷徹に見つめながら、そこに立ちすくむ個人を描く楽曲が徐々に登場してきました。すでに述べたように黒人の中産階級は確実に増えていましたが、その分中産階級の仲間入りができない下層の黒人たちの悲惨な生活が浮き彫りになっていきました。とくに弱いものから簒奪する都市に貧しいゲットーを形成して住む黒人たち、その彼らを歌う限り、全黒人の共闘といった楽観には頼らず、より個人主義的な視点が必要になったのです。
もう一つ見逃せないハサウェイの新しさは彼の音楽的バックグラウンドで、この点については、彼をデビューさせたアトランティックのジェリー・ウェクスラーがこう語っています。「ダニーの音楽的関心は複雑だった。」「ダニーは(エリック・)サティを弾けた。何でも演奏できた。彼は、他の多くのポピュラー音楽の作曲家とは違っていた。曲の構造が単純に終わることはなく、複雑なジャズのコード進行をベースにしていた。」「後にスタンダードになった彼の曲の数々は即興演奏には格好の素材で、ジャズに根差した作曲への確かな道を示した。」「ダニーはすごく賢かった。あらゆるタイム感や和音を身につけていて、僕には分からないぐらいで、なかにはエキセントリックな域まで達しているものもあった。」 彼のクラシックとジャズの素養は、これまでの泥臭いR&Bを新たな洗練の境地に導くことを可能にしました。シンガーとバックミュージシャンというソウルの公式を乗り越え、自ら楽器を演奏し作曲も手がけながら、自己表現として音楽活動をするという、いわば「アーティスト」としての黒人歌手の範型を形成したと言っていいでしょう。さらに言い換えると、ジャズの下地がアーティストの内省的な視線を支える音楽的水準を提供したのでした。この点は、ジョニ・ミッチェル ダニー・ハサウェイはプロのゴスペル歌手だったマーサ・クラムウェルを祖母に持ち、3歳という幼さですでに中西部を「ダニー・ピッツ:全国で最年少のゴスペルシンガー」といううたい文句で祖母と一緒に公演を始めました。彼はウクレレを弾き、白いセーラー服に身を包んでいたといいます。まもなくピアノと音楽理論の個人指導を受け始めました。64年にワシントンにある黒人のみの名門校ハワード大学に奨学金を得て入学し、まずピアノ理論を、ついで音楽教育を専攻します。在学中は、将来の道については音楽教師と説教師との間で迷っていました。大学時代にはじめてジャズとポップスを聴くようになり、生活費をまかなうために大学の仲間とリック・パウウェル・ジャズ・トリオを結成してワシントン周辺のクラブを回り始めたのが、彼のキーボーディストとしてのパフォーマンスの始まりでした。ハサウェイがソウル・ミュージックの世界に本格的に足を踏み入れるきっかけとなったのは、68年にカーティス・メイフィールドと出会ったことでした。メイフィールドがインプレッションズとして大学に公演に来たとき、ハサウェイは他の音楽科の学生たちと共にメイフィールドと話す機会を得ました。このときメイフィールドはハサウェイが身につけていた音楽的素養の豊かさに衝撃を受けたと語っています。「彼には本当にびびったよ。僕はああいう教育は受けていないから、ただもうすごかった。」 ハサウェイはメイフィールドに敬意を表して、音楽科で声楽をやっている学生たちを集めて組んだ自分のグループに、メイフィールド・シンガーズと名付ける許可を得ます。その彼らがハワード大学構内でやったライヴをメイフィールドも見に赴き、すぐに彼らを自分の新レーベル、カートムと契約させました。 大学を4年で中退してシカゴに妻と娘とともに移ったハサウェイは、カートムで、メイフィールド・シンガーズ、続いて女性歌手ジューン・コンクウェストと組んだデュオ、ジューン&ダニーで数々のミディアム・ソウルを歌ったほか、メイフィールドその人をはじめ、その他のアーティストの曲のアレンジを手がけるようになります。フィル・アップチャーチの紹介でチェスやスタックスの仕事も請け負うなど裏方として活躍を開始、69年初めにジューン&ダニーのシングル"I Thank You Baby"ではじめてチャート入り(R&Bチャート45位)も果たして、今度は大学時代からの仲間でドラマーのリック・パウウェルの協力を得ながらソロ・アルバムを準備し始めました。その頃、たまたまワシントンで開かれたDJ会議に参加した際に、キング・カーティスと出会うわけですが、この出会いがハサウェイの軌跡を大きく変えることになりました。ハサウェイの出来上がったばかりのアルバムのデモ版を手にしたカーティスは、すごい奴を発掘したと意気込んで、ワシントンからニューヨークに帰るとすぐにその足で、空港からジェリー・ウェクスラーの自宅へ直行しました。音を聞かされたウェクスラーも特に彼のビロードのようなゴージャズな歌声に感銘を受け、すぐハサウェイをアーティストとしてだけでなく、プロデューサー、ライターとしてもアトランティックに迎え入れることに決めました。同じ頃ベン・E・キングも、キング・カーティスに家に呼ばれて、ハサウェイの弾き語りを聞かされ、やはりその歌声を高く評価しています。 ここでハサウェイの弾き語りということが繰り返しでてきましたが、これが上述のアーティストとしての成熟という点と密接にかかわっています。シンガーソングライター系の特徴というのは結局、ギターにせよピアノにせよ、ライターの主な楽器で作曲が完了した時点で、基本的に曲が出来上がっていることです。実際のスタジオでの録音は、このフォーマットにしたがってバンドが音を重ねていくことになります。これがモータウン式だとライターとシンガーはほとんど別で、シンガーは歌唱を提供するだけの役割になりますし、スタックス式だと前もってあまり決まっていない状態でスタジオに入ってからバンドの取り組みで音を作っていました。ハサウェイはレイ・チャールズのような限られた例外と共に、教会での弾き語りの伝統を引き継いだ、一人でパフォーマンスの出来るアーティストだったのです。 さて本特集とのかかわりで言えば、デビュー・アルバムではまず"The Ghetto"に触れておかなければいけません。リック・パウウェルはオリジナルの英文ライナーで、この曲はダニーが、絶望と剥奪ではなく、ゲットーの幸せな要素を探求する旅に誘うものだと記しています。ハサウェイの美声のリードに続く「うん、これがゲットーだ」という語りで、コンガがグルーヴィーなリズムを刻み始めます。エレピのソロもさることながら、コンガを意識的に使ってアフリカン・ルーツを漂わせることで、ストリートの生活の律動を再現しているようにも聞こえます。歌詞はほとんどなく、その代わりにまずは男性たちが、そして後では女性も加わって「ザ・ゲットー」と繰り返していくのが、まるでゲットーに住む人々のざわめきをサンプルしてきたような臨場感を生んでいます。後半のハンド・クラップに、コンガの乱打で否が応にも盛り上がり、赤ん坊の泣き声も入ったところで、エレピの高まるクライマックスを迎えます。この曲をどう解釈するかは聞く者の自由ですが、当時は大都市の黒人居住区のゲットーに暮らす黒人たちの誇りを称える讃歌として受け止められました。ハサウェイはこの曲をすでに67年には完成していたようですが、この曲のテープを持ってレコード会社を訪れるとどこでも、黒人暴動を煽る危険があるとして断わったそうです。 さて、歌詞からももっと明確にメッセージ・ソングと言えるのが、ハサウェイが大学のルームメイトで、インプレッションズにカーティス・メイフィールドの後任として入ったリロイ・ハトソンと書いた"Tryin' Times"です。私たちが「試練の時」を迎えている、親子がいがみ合い、ゲットーではあちこちで暴動が起こっているけれども、「ブラザーにもっと愛を注げば、人々は苦しまなくてすむんじゃないんだろうか」と、歌いかけています。そしてもう1曲注目したいのが、"To Be Young, Gifted, And Black"(若くて才能があって黒人であること)。この曲は奇しくも先にニューソウルの先駆け的存在として紹介したニーナ・シモンの作曲で、「若くて才能があって黒人の男の子と女の子は、この広い世界に何百万人といるのよ」「世界があなたのことを待っているわ」と優しく深い声で聞く者を包み込みます。シモンのメッセージを受け継いでハサウェイは、機会を得られずに貧困の悪循環から抜けられない若い黒人青年たちに希望と自信を持つように暖かく呼びかけているのです。これはちょうどアルバム・ジャケットでベレー帽をかぶったハサウェイが黒人の子供たちと手を組んで輪になっている姿と重なります。 1枚目と違って、ハサウェイの2枚目 Donny Hathaway(1971年)は初期段階からアトランティックの強力なバックアップを受けて制作されました。ウェクスラー自身がプロデュースに共同参加、ライナーノーツを自ら執筆して絶賛しただけでなく、名プロデューサー、アリフ・マーディンが割り当てられました。録音には最初にハサウェイを見出したキング・カーティスだけでなく、カーティスと組んでいたコーネル・デュプリー、チャック・レイニーが活躍しています。さらに、メンフィスからドラマーのアル・ジャクソンが駆り出されていますが、さすがソウル帝国アトランティックの人材を駆使した組み合わせと言っていいでしょう。ハサウェイはアルバムの冒頭曲"Giving Up"を録音しているときに、他でもない、この元MGズの名手ジャクソンに対して、タイムがとれていないと文句をつけたという話があります。ジャクソンは正確に叩いているつもりだと反論しながらも、謙虚にハサウェイに見本に叩いてみるように頼みます。ウェクスラーをはじめ回りにいた人間たちは、ハサウェイの演奏もジャクソンが叩いていたのとまったく同じだと思っていましたが口にはせず、そのままハサウェイが満足しないまま何回もとり直す状態が続きました。朝3時ごろになってはじめて、ハサウェイが突然「それだ!」と叫び、それから一気に仕上がったとのことです。 また、ビリー・プレストンをカヴァーした"Little Girl"は、後でプレストン本人が聴いて固まってしまったという曲で、まもなくプレストンがハサウェイに近いスタイルに活動をシフトしていくのを考えると興味深い接点です。本アルバムは前作と異なって、ハサウェイのオリジナル曲はほとんどなくカヴァーが大半を占めているので、社会的なコメントを直接に展開してはいません。その代わり工夫を凝らしたアレンジでヴォーカルに焦点が当るようになっています。ハサウェイの歌声はスマートで優しく、ポップスをカヴァーしてもソウルフルに聞かせますが、このシャウトもむせび泣きもしない歌い方を、伝統的なソウル・ファンが薄味だという批判しているのをしばしば見受けます。この種の批判は極端になると、クワイエット・ストーム、ブラック・コンテンポラリーといった80年代以降のメロウな路線を一括りにしてソウルのディープな体質が骨抜きになった現象と見て、その元凶としてハサウェイの責任を追及しています。ただ音楽をジャンルでまとめて切り捨てることは正当ではなく、ハサウェイが独自の表現力でソウル・ミュージックの枠組みを押し広げた功績をプラスに評価したいと思います。
ライヴ盤が全米18位と健闘したのに続いて、すでに録り終えていたフラックとのデュエット・シングル"Where Is the Love"が8月に全米5位に、そして2人のアルバム Roberta Flack and Donny Hathaway (1972年)も3位に上昇します。この2人のデュエットは翌73年の第15回グラミー賞で、「デュオやグループ、コーラスによるベスト・ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス」に輝きます。そして73年6月、3枚目のスタジオ盤になる The Extension of A Man (『愛と自由を求めて』)(1973年)がリリースされました。アルバムのライナーにはハサウェイ自らがペンを執り、「『人間の(可能性の)拡張』というタイトルをつけたのは、僕が今音楽のスタイルを広げて、発展させているところだからだ。僕は音楽を愛している。だから、人間一人に可能な限り多くのあらゆるスタイルの曲を録音してみたい。」と宣言しました。このライナーを読むと、彼がソウルの伝統とは異質な新しさがあったのは当然のこと、むしろソウルという枠にはめて語ろうとすること自体が本人の意に添わないようにも思えます。冒頭の"I Love the Lord; He Heard My Cry(Parts I & II)"は本人が理論的解説も加えて明らかにしているように、クラシックの印象派やガーシュインの影響を随所に感じさせる45人編成のオーケストラ・ナンバーです。タイトルとコード進行にゴスペルを埋め込みながら、映画音楽的なアレンジも加えて、そもそも歌のないインストで勝負したところは、およそソウルの伝統にはない試みです。この他のトラックもサウンドの多様性と豊富なアイディアがみごとですが、ここでも黒人社会に向けた彼のまなざしが読み取れるナンバーに注目すると、"The Slums"が重要です。この曲はハサウェイ自身が"The Ghetto"の続編で、同じく黒人が誰でも共感できるナンバーになることを期待して書いたといいます。何と言っても、ライヴ盤でもいい仕事をしているウィリー・ウィークスのベースラインが決め手で、これにアトランティックのスタジオにいた人間を駆り出したという、ストリート・トークを模した雑談の声が黒人街のどの通りでもありそうなざわめきを再現しています。
生前の彼が内面で深く悩んでいたことは、彼に関わった人々がしばしば見て取っていますが、具体的にどんな葛藤を抱えていたのかを証言できる人はいません。73年末、彼は精神分裂病と診断され、入院しています。以後亡くなるまでの間、彼にはいつもどこか空ろで、精神的な空白を抱えた様子がありました。エドワード・ハワードはハサウェイの生前最後のアルバムとなった、上記『愛と自由を求めて』に"Someday We'll All Be Free"(いつか皆自由になる)を提供しましたが、その執筆の背景について、こう語っています。「僕がその時考えていたのは、ダニーのことさ。僕は彼が直面しているあらゆることからいつか解放されることを願っていたんだ。僕が彼を励ますために出来ることは、曲を書くことしかなかったから。」 冒頭のオーケストラ・ナンバーから繋がっているスペーシーなピアノ・フレーズを使いながら、ハサウェイがじっくりと歌い上げるこのバラードは、この逸話を聞いてからだと一層、ハサウェイを含む苦難を乗り越えようとしているあらゆる人々への鎮魂歌のようにも聞こえてきます。ハサウェイの苦悩の重要な部分が、創作上の問題だった可能性はうかがえます。彼と録音した多くのミュージシャンが、彼は音楽的方針については厳密で、頭の中で求めるサウンドが得られるまでは何度もやり直させたようです。我々が歓喜して聴く Donny Hathaway Live も、彼自身には不満の残る仕事だったようです。天才の抱える孤独という決まり文句で片づけるのは気が進みませんが、そうした面があったことは想像できます。これに合わせて、アトランティックの強力な後押しを受けたことが結果として重荷になった可能性も考えられます。黒人暴動の頻発する混乱の時代を後にして、理知的で都会的な新たな世代の黒人たちのリーダー的な存在として売り出されたハサウェイは、その枠にはめられた圧迫感があったかもしれません。"I Love the Lord ..."のようなまったく新しい試みまで許したアトランティックですが、ハサウェイが自分の音楽的可能性を広げようとしてすぐフリーになった経緯はこうした想像をうながします。 さらに音楽とは少し離れた私生活に悩みを抱えていた可能性もあります。大した問題ではないかもしれませんが、生前のハサウェイは自分の顔が梨みたいだと語り、自分には男としてのアピールが足りないと嘆いたことがあったようです。確かに60年代に活躍したソウルシンガーたちの多くが熱い感情をたたえた男の魅力のような路線で売っていたことを考えると、ハサウェイの魅力とは異なりますし、よくベレー帽をかぶっているのもその辺りを意識した彼なりのおしゃれなのかもしれません。本人も自分が従来の男性ソウルシンガーたちとは違うことは意識していた節があります。例えば、『愛と自由を求めて』の中のライナーで"Come Little Children"の解説に、「踊れない僕としては、自分が子供たちのために書いたこのダンス曲にはすごく満足しているんだ。子供たちが気に入ってくれるといいな。」と書いているのも、しばしばソウル・ミュージックの根幹とされるダンスの要素が希薄なことをうかがわせているとも言えます。また、親友のリック・パウウェルは、彼が家を買ったり、スピード違反で捕まったりという日常生活の局面では、いつも苦労していたと漏らしています。今日でもヒップホップのアーティストたちがしばしば語るように、黒人というだけで地元の店で嫌がらせをされたり、街で車に乗っていれば警官に呼び止められる、そんな人種差別の現実に彼が直面していたとしても不思議ではなく、ちょうどモーツァルトがそうだったように、私生活の苦労を物ともしない精神力とプロ魂で何とか活動を続けていたという事情があったのかもしれません。 さらに想像をたくましくすれば、ハサウェイのアイデンティティの問題が見え隠れします。本特集ではハサウェイを黒人社会の現実に対するまなざしを新たなタイプの音楽に昇華した人物として紹介しているわけですが、彼がいくら黒人の窮状に思いを寄せていたとしても、彼自身はいわゆるストリートでたむろするような経験はしていません。幼い頃からゴスペルシンガーの祖母のもと、厳格な教育を受けていた彼は、すでに述べた通り音楽的には由緒正しい教育を受けており、ストリートから自然に発生したような活動ではありませんでした。このことを考えると、彼の社会に対するアプローチが常に精神的で理知的であり、生の体験には裏付けられていないことが分かります。ハサウェイ自らがライナーに書いた通り、ブラック・ミュージックのルーツであるブルースをやろうと思ったときに、白人であるアル・クーパーが書いた"I Love You More Than You'll Ever Know"をカヴァーしたのは、いくらシカゴ周辺の育ちでもブルースには縁のなかった体質を物語っています。神聖なゴスペル音楽の薫陶を受けた彼には、世俗の音楽をやることには長い間抵抗感があったようです。多彩に展開された才能のかげには、自分のよりどころが見えなくなる苦しみが隠されていたのかもしれません。ハサウェイが世俗のソウル・ミュージックに手を染め始めた頃付き従ったのはカーティス・メイフィールドで、彼の黒人としての力強い誇りはハサウェイに強い影響を与えました。曲自体はメイフィールドの影響は直接強く表われてはいませんが、アーティストとしての立脚点には共通するものがあります。ただ、ハサウェイの場合、どうしてもその足場は繊細でひ弱な感じがあるのは否めません。メイフィールドにみられる力強さがハサウェイには欠けていて、そこが曲の魅力でもありますが、今聴くとそのもろさが彼の悲劇の最期を予感させるようにも思えるのです。 社会運動と関わるのを避けながらソウルが確立されていった60年代前半、アメリカ社会の変貌を背景にソウル・ミュージックが政治化した60年代末、そして70年代初めのニューソウルの登場という大きな流れを見てきたわけですが、この歴史をもっとも体現しているアーティストといえば、カーティス・メイフィールド ダニー・ハサウェイと同様に、メイフィールドの祖母もゴスペルシンガーかつ説教師で、メイフィールドは幼い頃から教会で歌い始めています。その祖母の主催するトラヴェリング・ソウル・スピリチュアリスト・チャーチの一行としてツアーに同行したのが、彼が教会を出て始めた初期の活動でした。わずか14歳だったメイフィールドがこのとき一行のメンバーとして出会ったのが、ジェリー・バトラー。意気投合した2人はすぐ一緒にコーラス・グループとして活動を始めます。1957年南部のテネシー州からルースターズというグループ出身の3人がシカゴに移ってきて、バトラーと出会います。そして、バトラーがメイフィールドを誘って5人になった彼らは、翌年ヴィージェイ・レーベルと契約を得ました。ヴィージェイの門を叩いたのは、実は最初はチェス・レコーズでオーディションが決まっていたのに、その日シカゴは積雪が1メートルを超える大雪でチェスに入れなかったのでギターとアンプを持ったまま困っていたところ、道を隔てた向かいにたまたまヴィージェイの事務所があったので試しに訪れてみると、入れてくれたので1曲歌ったという偶然のきっかけだったそうです。まもなくグループは名前をジ・インプレッションズ このジ・インプレッションズにやっと復活の道が開けるのが1960年、レーベルから外されたグループをメイフィールドが内職してなんとか支えて作ったデモテープのおかげで、ABC・パラマウントとの契約をかちえたことによってでした。この頃までにメイフィールドは、グループの作曲とヴォーカルを主に担当して、バンドのリーダー格になっていました。61年7月、移籍後の最初のシングル"Gypsy Woman"が全米20位と健闘、63年のメンバーチェンジを経て、同年9月、シカゴ・ソウルの基本型を作った名盤と言われるデビュー・アルバム The Impressions (1963年)を発表します。アルバムは全米43位、そしてメイフィールドのギター・カッティングとファルセット・ヴォーカルが冴えるシングル"It's Alright"はR&Bチャート1位、ポップス・チャートでも4位に輝きました。名バラード"I'm So Proud"を含むセカンド The Never-Ending Impressions (1964年)を経て発表されたのが、全米8位とグループ最大のヒットとなったサード・アルバム Keep On Pushing (1964年)でした。そのタイトル・トラック"Keep On Pushing"はメイフィールドの中性的とも呼ばれる高音の声を逆手にとった素晴らしいファルセット・コーラスが魅力ですが、このごくゴスペル的な曲の歌詞は当時ピークを迎えていた公民権運動を背景に、黒人の誇りをサポートする趣旨として読み込まれました。「向こうを見てみよう、見えるのは何だろう?/大きな石の壁が、目の前に立ちはだかっている/でも僕には誇りがある、だからあれを押しのけてしまうよ/そして押し続けるんだ」というポジティヴな内容はまさに、運動の精神を反映したメッセージとして受け止められたのも当然でしょう。
"We're A Winner"は、67年11月という、黒人運動が新たな高みを迎えていた時期に発表されたシングルで、メイフィールドの黒人社会へのコミットメントがさらにもう一段階踏み込んだ形で表現された曲です。黒人群衆のざわめきを入れて、「僕らは勝利者だぞ」と高らかに宣言しています。別にひどく煽り立てる感じでもありませんが、メイフィールドにしてはそれまでになくファンキーな曲調で、ドラミングが目立ち、まもなく独自のファンクを開発していく先触れになっています。後の"Move On Up"や、以前の"Keep On Pushing"のコーラスも混ぜているのは、面白いところですが、いずれも「歩み続けよう」「押し続けるよ」という前向きの姿勢が、明らかに黒人運動をサポートするメッセージとなっています。リスナーの反応もよく、R&Bチャートでは1位になり、いくつかのラジオ局では社会的影響を危惧して放送禁止になりました。 メイフィールドがこの頃新たな自覚を深めたことを物語るもう一つの出来事は、68年3月に自主レーベル、カートムをエディ・トーマスと共に設立したことです。メイフィールドはすでに66年から自主レーベルを作って他のアーティストを売り出す活動も始めていましたが、カートムの設立と同時に、ついにジ・インプレッションズをこの新レーベルに移籍しました。しかも、レーベル・マークにはモットーとして、シングルのタイトルと同じ"We're A Winner"と記したのです。メイフィールドが自主レーベルを作って楽曲をみずから管理するようになったのは、レコード会社に権利を奪われて涙をのむ他のライターたちの姿を目の当たりにした結果得た知恵でした。シカゴ市の愛称から名付けて66年に設立したウィンディ・Cはほぼファイヴ・ステアステップス1組のため、また自らの名前を冠したメイフィールド・レーベルもザ・ファシネイションズほぼ1組のためという状態で、いずれも短命に終わりましたが、カートムの場合は68年の設立後80年に正式に解散するまで、長期間にわたって続き、黒人が自ら経営して成功した事業例として模範になりました。 移籍第1弾のアルバムとなった This Is My Country (1969年)はアルバム・ジャケットもそれまでのスーツにネクタイという上品なコーラス・グループ的なやめて、ゲットーのがれきの積まれた荒れた建物を取り囲む3人が写されています。タイトル曲"This Is My Country"は曲自体は、ホーンを活かしたノーザン・ソウルですが、歌詞は「ここは僕の国なんだ」とアメリカを母国と呼ぶ権利は黒人にもあることをスウィートに訴えています。69年8月、R&Bチャートではカートム初の1位になってヒットした"Choice of Colors"は「色を選べるとしたら、どっちを選ぶかい?ブラザー」「もう少しだけ余計に教育と愛が施されれば、もっといい社会になる」とさらに直裁に社会問題を扱い、しかも「もうどのくらい白人の先生が嫌いだい?」と歌って排外的にブラック・パワーを主張することは戒めるバランスのとれた感覚を示しましたが、これは音楽的には平均的な出来栄えで、時代の産物と考えた方がいいかもしれません。同じアルバムの"They Don't Know"では68年に黒人運動の象徴的なリーダーのマーチン・ルーサー・キングを失って落胆する黒人たちを励まして「ブラザーは誰でもリーダーなんだ」「僕たちの愛が世界を自由にする役に立つよ」とブルージーに語りかけます。 自己主張するシンガーソングライター、カーティス カートムではグループとして4枚のアルバムを出しながら、ノーザン・ソウルからファンクへの移行を進めていったメイフィールドですが、メイフィールドは70年10月、ついにソロ・アーティストとしての道を歩み出しました。インプレッションズの活動もメイフィールドの変化を反映して遷移していましたが、それでもやはりメイフィールド個人の創作力を十全に活かすには独立の道をとらざるを得ませんでした。これは同時にメイフィールドの他のメンバーに対する配慮の結果でもありました。「インプレッションズで"Choice of Colors"とか"We're A Winner"みたいな曲を歌ったのは、実際にはグループにとってはリスキーだったんだ。ラジオでかけてもらうには、本流から外れていたからね。自分一人だったら冒険するのは構わないけど、でもいつも仲間の気持ちが気になっていた。」 インプレッションズのアルバムはカートムに移ってから1枚もトップ100入りせず、かつ"We're A Winner"などの曲は放送禁止になるという事態を打開する必要を感じていたメイフィールドは、グループの他のメンバーを巻き添えにせずに、自己主張を貫く道を選んだのでした。因みにこの決断に際しては、カートム・レーベルのマネージメントを担当していた若き白人、マーヴ・スチュアートの助言もありました。スチュアートはメイフィールドに「今成功しているのは皆、シンガーソングライターだよ、カーティス。アーティストなんだから、一人で独立すべきだ。」と独立を勧めたのです。興味深いことに、こうして白人マネジャーを通じて、白人のシンガーソングライター・ムーヴメントとの接点が生じたのでした。
"The Other Side of Town"はハープとドラム・ロールで豪華に幕開け、おそらくダニー・ハサウェイがアレンジしたものでしょうか、曲調がハサウェイに似ています。黒人運動の昂揚にもかかわらず、冷静になってみると、「街の向こうのはずれ」では「日が当ることもなく」「店には何一つめぼしいものはなく」「単に普通のじゅうたんですら手に入らず」「僕の妹は、食べるパンがなくて空腹で」「気はひどく沈んでしまう」と、いまだに貧しい黒人社会の厳しい現状を歌っています。この辺りのニューソウル的な感覚は、メイフィールドの芯のある黒人意識とハサウェイの洗練した音楽的センスが結びついたものでしょう。メイフィールドはハサウェイについて、こう語っています。「彼にはもうびっくりしたね。(音楽を理論的に分析できる)人々を僕はいつも尊敬しているんだよ。だって、僕はそういう教育は受けていないから、ただ見事だもの。」「(ハサウェイは)音楽についてひどく知識があった。」「彼が学んだちょっとした新しいアイディアの数々を作曲に活かして、そりゃもう」「昔の人間にとっては立寄ってこの新しいタイプの音楽を聞いて、この若者が音楽を作っていくのを見るだけでうれしかったよ。彼はビッグになるさだめだったんだ。」 Curtis でメイフィールドがメッセージ色を出したのは、この2曲にとどまりません。4曲目"We the People Who Are Darker Than Blue"もアコースティックなピアノのアクセントで醸し出すブルーな感触はニューソウル的、黒人だけでなく黄色人種などにも言及しながら、直接人種隔離の問題を歌います。始まって2分ぐらいに突如としてコンガとタンバリンを使って原始的なリズムへの移行して仲良くしようぜと呼びかけるのは、これまた見事です。"Move On Up"には「ただ前進し続けるんだ」「自分の夢を忘れるな」と歌って、あきらめなければいつか道が開けるというゴスペル的な信条を込めました。少女に「あたしはミス・ブラック・アメリカになりたいわ」と語らせる"Miss Black America"は黒人としての誇りを高めるもう一つの表現ですし、分厚い音作りに仕上げた"Wild And Free"も若者たちの「ワイルドで自由な」がら社会を変えていこうというやり方に対する理解を呼びかけています。
音楽的にも、黒人運動の精神的リーダー的なスタンスでも、波に乗っていたカーティス・メイフィールドが同じ71年に出した3枚目のソロが Roots (1971年)で、ファンクとスウィート・ソウル、黒人支援と人種融合という絶妙なバランスの上にたったメイフィールドの真骨頂が聴けます。アルバムのタイトルは前もって構想されたものではなく、ジャケットの写真をシカゴ郊外の切り株で撮ったことで「ルーツ(根っこ)」と名付けられたようですが、あたかもメイフィールドのルーツを表明しているような格好のタイトルとなりました。"Get Down"でメイフィールド版ファンクの典型を確立して、それに続く"Keep On Keeping On"では子供たちに語るという体裁をとって、「まだ我々の間には愛が広がっているんだ」、「この国の人々は今や一つになった」と言える日は遠くないから、「続けることをやめちゃいけない」、そしたら「今日は悲しみに暮れていても、明日は喜びがある」と虹色の夢のあるイメージを展開します。"Underground"は、メイフィールドの詩的才能が一つの高みに達した歌詞で、公害に汚染され差別に彩られた地上にはもう住めない、地下に入れば灯りもなくて何も見えないから、誰もが黒くなると歌います。メイフィールドの代表曲となったアップテンポな"We Got to Have Peace"ではベトナム戦争に対する彼の回答が「皆に同じチャンスを与える/なんて素敵な夢だろう/死んだ兵士たちを/もういちど生き返らせることができれば/きっと彼は/『平和が必要だ』と言うだろう/世界に広めよう/ピース、ピース、ピース、平和が必要だ」と直裁に語られています。ジョニー・ペイトお得意の緊迫感のあるストリングズ・アレンジが冴える"Beautiful Brother of Mine"は「愛と敬意と誇りがあれば/成功は俺たちのものだ」と歌い、すでに混迷をきたしていたブラック・パワーを支える不撓の精神が表われています。
さて、各曲の歌詞は基本的に台本をもとに配役とストーリーを意識して書かれたものですから、メイフィールド自身の問題意識がストレートに投影されたものではありませんが、それでも例えば"Nothing On Me (Cocaine Song)"では、浮揚感の漂う曲調に乗せて「人々はどこでも変わらない/みんな同じように恐怖を抱き/同じように涙を流し/亡くなる」「今や俺たちの命はプッシャーマンの手にかかっている/やめさせるんだ/分かってくれるといいんだけど/自分をどう守るかを/プッシャーマンに儲けさせちゃいけない」と歌われ、人種差別の無意味さを説き、ドラッグの魔の手を離れさせようとする一貫した立場が表われています。ところが、映像の方はメイフィールドの方の理解とは少し食い違ったものに仕上がっています。もう一つの有名な黒人映画「シャフト」を指揮したゴードン・パークス・シニアの息子、ゴードン・パークス・ジュニアが監督したわけですが、彼はロン・オニール演じるプッシャーマンが麻薬密売の稼業を脱け出そうとする物語を、コカインを決めるシーンの連続、派手な車、ぽん引きと売春婦といったゲットーの典型的なイメージを散りばめて映像化しました。メイフィールドはまるでドラッグと売人を賛美するような仕上がりになったことを残念がりながら、これは監督が成功するためには仕方なかった商業的な要請だったのだろうと後で語っています。黒人社会をとりまく社会問題を身近なストーリーに置き換えて歌うことで人々が考える材料を提供するつもりだったメイフィールドにとって、ゲットーのステレオタイプなイメージを増幅するような取り組みに終わって、日頃ひしひしと感じている実感とは遊離してしまった映像は納得のいくものではなかったのでしょう。そして、この食い違いがまさに、70年代に興隆したブラック・シネマの限界を物語るものでした。(第4回を参照。) 苦悩する魂、そして奇跡の復活 好調のメイフィールドが73年6月、次に発表したのは Back to the World (1973年)でした。暖かく精神的に黒人運動を支えた60年代半ばから、人種差別を黙認する社会に挑むようにファンクを身につけた60年代末、そしてソロになってさらに自らの声として黒人の誇りを唱えた70年代初期と、少しずつスタイルを変えてきた彼ですが、ここへ来て再び微妙な変化をみせました。アルバム・タイトルが"I'll be glad when I get back to the world.(しゃばに戻れたらうれしいよ)"という在外の米兵の間で当時流行っていた表現から付けたものであることからうかがえるように、ベトナム戦争から帰国する米兵たちが混乱の後のアメリカ社会に直面したときの心理を見つめたコンセプト・アルバムとなった本作は、内面の深みに入り込んだ描写とそれを支える贅肉を落としたファンク・リズムで、ニューソウル的なアプローチの高みを実現しました。これはメイフィールドが当時ヨーロッパ各国の駐留米軍基地で激励公演を行った経験を経て、ベトナム戦争について自らの解釈を試みた産物で、そのアプローチはマーヴィン・ゲイの What's Going On (1971年)を引き継ぐものとも言えます。しかし、帰還兵の内面にはゲイよりもさらに一歩深く踏み込んでおり、「ああ辛いよ、辛いよ/この生活は辛い/帰還兵には仕事もない/しゃばに戻ってきたのに」("Back to the World")、「俺は目が見えないから、どう理解していいのか分からない/正義ってのは何を意味するんだい」("Right On for the Darkness")と苦悶を代弁し、アップテンポな楽観で子供時代に戻れたらと夢想してみせて「そしたら白人と黒人なんて区別もないだろうし」「すべてが純粋で本物に見える」と歌いながら、同時に「僕らは死や戦争の見るに耐えない傷痕、そして人間の悪い面を理解するには幼すぎただけだろう」と自ら現実に立ち戻ります("If I Were Only A Child Again")。しかし興味深いことに、マーヴィン・ゲイが"Inner City Blues"の絶望に似たムードでアルバムを終えたのに対して、メイフィールドは"Keep On Trippin'"というアップテンポなナンバーでさすらいの末に愛がいつか二度結ばれる可能性を歌って明るく終わります。この終わり方は、やはり何があっても希望は捨てないというゴスペルの信条を血肉にしたメイフィールドならではでしょうか。内ジャケに記された「このアルバムを子供たちに捧げる」「自分がまた子供に戻れるなら」「大人に対して『いつになったら地球上に平和が訪れるの?』と聞くだろう」という言葉も注目を要します。 さて、この後も多産な活動を続けたメイフィールドは80年の会社解散までにライヴ盤、サントラ盤、リンダ・クリフォードとのデュエットを含めた11枚のアルバムをカートムから発表し、80年代以降も創作のペースを落としながらも4枚のスタジオ盤と2枚のライヴ盤を発表しています。70年代半ば以降、メッセージ性の高いブラックネス溢れる楽曲に代わってメロウなラヴ・ソングが中心になっていたメイフィールドですが、もともと彼の立場は「いろいろなトピックを移り歩いて、人々に考える材料を提供しながらも、全体に愛を織り交ぜる」というものでしたから、表向きは一対一の愛を歌っていても、そのスタンスに違いがあるわけではありませんし、ましてや楽曲の成熟度もそれによって必ずしも落ちるわけでもありません。最近のクラブシーンが再評価するように、何もメッセージ色の強い姿だけがメイフィールドではないのです。ただ、アルバム全体を通して聞いたときに、特に70年代後半以降むらが見られるようになったのと、80年代に入ってからはレーベルも転々として制作のペースも落ちていささか低迷気味になったことは否めません。この辺りの事情について、メイフィールド自身は「僕はちょっとたくさんのことに股をかけすぎたんだ。ツアーに出て、映画をやって、自分の創作に取り組んで、それから他の多数のアーティストのためにスタジオでいろんな決断をしなきゃいけなくなった。自分の私的なことは処理しなきゃいけないし、お金も管理しなきゃいけなかったからね。」と語っています。特に自主レーベルのカートムの経営が70年代後半にかけて悪化するにつれて、自分の創作活動自体が影響を受けました。78年の Do It All Night(1978年)でディスコ・ブームに便乗し、 Heartbeat (1979年)ではフィリー・ソウルの裏方ノーマン・ハリスに助っ人を頼んだのは明らかにビジネスの考慮があってのことでした。本人も「もちろんビジネスの要素は無視できないさ。それに、株主とかいった金をつぎ込む連中は、音楽なんか聞きもしないかもしれないからね。」「自己主張したければ、まずヒット・レコードを作らないと駄目だ。僕が、僕が、僕が、と常に自分を通そうとしても、必ず失敗する。」と語っています。音楽的に見ればディスコ・サウンドに頼るとなかなかオリジナリティは出しにくいですし、コーラスではなくカーティスの声量はないファルセットがソロでバラードを歌うのは厳しいもので、なかなか苦渋の選択だったと思われます。
There's No ... を聴いてまず驚かされるのは、冒頭のイントロの音数の少ない、シリアスなただずまいです。Curtis や Super Fly でもかなり音の厚いファンクが展開されていたのに、ここではやけに隙間のある音作りでからみつくワウワウ・ギターが恐ろしくリアルです。歌詞の方も都会ではちょっと名を上げたギャングのビリー・ジャックが拳銃で撃たれて、「血が胸いちめんに飛び散って」いるというもので、救いようのない悲しみは「ア〜アァ」というメイフィールドのうめきに凝縮されています。"When Seasons Change"では「イエスに祈れば、僕はもう少し強くなれる」といつもの辛抱強さを見せながら、「お金はもたない」し、「世間は冷たい」し、また「税金は徴収される」し、「どうやって人は生き残れるだろうか」と歌うファルセットがあまりに切なく響きます。神の手を借りて説教師のように語り掛ける"Jesus"でも、ゴスペルの高揚感とは対照的に、人々には「僕は何もしてあげられないよ」「自分の内面を見つめるんだ/自由になる方法を知っているのは自分だけなんだから/にっこりしたければ、自分の力で微笑むんだ」と自助を説き、「子供たちが腹を空かしているのを見るぐらいなら、墓場に入ってしまいたい」「何かが恐ろしく間違っている」という人々の悲痛な叫びを代弁しながら、じっくりと「恐いときには勇気が必要だ」「イエスのことを語るんだ」と言い聞かせます。「愛は共有できる」とポジティヴなメッセージも出てくる"Blue Monday People"でも、バイオリンとハープで何やら明るくブレイクしそうな予感を与えながら、そのまま1分近くもリズムを入れずに焦らして、さらに「僕は君たちの問題は分からない/君たち自身だけが解決法を知っているんだ」とふたたび自助を説きます。"Hard Times"では「驚いたことに、同胞が腐りきっていた/そいつは俺の兄弟を殴り、俺にピストルを突き付けた」「辛い時代を生きているよ、このいかれた街で/辛い時代を生きているよ、愛はどこにも見当たらない」と、ついに同胞愛にも疑いを投げかけました。最後の"Love to the People"では希望を持たせる曲でアルバムを終える方針は踏襲したものの、「失業者の列で、たくさんの人々が並んでいる」「食卓には豆しかない」行き場の見えない時代には、ラジオが「人々に愛を」と言うのが少しは気休めになるかもしれない、「朝が来れば大丈夫だ/あきらめやしない、自分のちっぽけな誇りを」と苦渋に満ちた終わり方です。音楽的には実にクールなファンクの本作、内容を意識すると胸が詰まって聞けないほどずっしりくる重さです。ソウルが常にシンガーと聴衆の間に生まれるある種の連帯的な高揚感に支えられていたとしたら、このアルバムはその対極にあっていわばかつてブルースが表現した個人主義に逆戻りしたようにも思えます。そして、ここでは Roots や Back to the World では社会的関心とメロウなソウルが絶妙なコンビネーションを築いて生まれていたニューソウル的な表現はとうに突き抜けてしまっています。 メイフィールドがここでたどり着いてしまった閉塞感をひしひしと感じ取ると、この先にこれ以上メッセージ色のある曲がなかなか生み出せなくなったのはむしろ自然にも思えてきます。社会への期待が持てなくなった後には、足元を見つめて、一対一の愛情から組みたて直さなければならない、そんな方向を読み取るのは、読み込み過ぎでしょうか。とはいえ、80年代以降の作品にも、メッセージ性が皆無だったわけではありません。Love Is the Place (1981年)には"Come Free Your People"、Honesty (1982年)には"Dirty Laundry"、We Come in Peace with a Message of Love (1985年)には"We Gotta Have Peace"、Take It to the Streets (1990年)には"Homeless"といずれも最低1曲は、社会的な広がりを持った歌詞の曲が含まれています。特に"Dirty Laundry"では、ハーモニカとスチール・ギターというメイフィールドにしては珍しい楽器を使って、レーガン政権の弱者に厳しい保守政治をやり玉にあげて、「アンクル・トム(=アメリカ)はもう信頼できない」と政治の腐敗をこき下ろしています。とはいえ、残念ながらメイフィールド自身が黒人の地位向上の動きの精神的リーダーとして前線で活躍していた時代は終わりを告げ、80年代は新しく登場したラップがその精神を引き継いだのでした。実際、多くのラップ・アーティストが Super Fly をはじめとしてメイフィールドの作品をサンプルして敬意を表しています。1990年9月に発売された映画サントラ Return of Superfly (1990年)では、アイス・Tと共演して"Superfly 1990"を作りました。白人グループではありますが、イギリスのブロウ・モンキーズのシングルにゲスト出演した1987年の"Celebrate (The Day After You)"も、サッチャー首相の保守政治を厳しくこき下ろしたもので、メイフィールドの白人まで巻き込んだ後進への影響を物語っていました。また、新進の社会派黒人監督のスパイク・リーに映画で自分の曲を用いることを許したのも、同様の世代交代の一環として考えることができます。 90年の Take It ... の後、次のスタジオ盤まで実に6年間のブランクが空いていますが、これはすでによく知られているように、90年8月にメイフィールドを襲った悲劇の結果でした。このエピソードについては別の場所で改めて述べる機会があると思いますが、舞台装置の直撃を受けて、メイフィールドは首より下の全身が麻痺し、以来先日亡くなるまでの間ずっと、病床に就くことを余儀なくされました。この事故でメイフィールドはギターを弾くことが出来なくなってしまっただけでなく、まもなく家を火事で焼失するという二重苦に見舞われました。本人は非常に暖かく優しい人柄であると伝えられ、いつも人々の苦しみに共感して活動を続け、神への信心も厚かったメイフィールドがなぜこのような苦しみにあわなければいけなかったのか、不条理としか形容のしようのない出来事の連続でした。90年代前半、ファンたちがメイフィールドの体調を危惧しながらじっと見守る中、彼に敬意を払うミュージシャンたちが次々とトリビュート・アルバムに参加し、かつグラミー賞やロックンロールの殿堂が彼の過去の功績を称えました。イギリスではチャーリー・レーベルが彼のほとんどのソロ作を再発し、アメリカでは96年にライノのCD3枚組の決定版アンソロジー People Get Ready!: The Curtis Mayfield Story (1996年)がリリースされました。
「あきらめはしないから、大丈夫だ/日に夜に苦しまなきゃいけないこともあるけど/僕はやるべきことはやらなきゃいけない/だって、生きていることは本当にすごく素晴らしいんだから」「僕らの人生はなんて美しいんだ/あぁ、本当に美しい/僕らが与える愛はなんて美しいんだ/本当に美しい」 99年2月にソロ・アーティストとしてもロックンロールの殿堂入りを果たし、病床からのビデオでは復帰第2弾の計画を語りながら、このアルバムが遺作になってしまったメイフィールド。今はただ安らかに眠って下さいとだけ・・・。
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