アフリカ文化とラテン文化の混合社会 |
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このサイトは、ラテンアメリカを縄張りにする男が縁あって派遣された、西アフリカの島国「カーボベルデ」について紹介しようとするものです。 Since 2005.1
カーボベルデはアフリカ、アメリカ、ヨーロッパの三つの大陸からの中継地点に位置し(アフリカ沿岸から450キロ)10の主な島と8の小島から形成され、合計4.033平方キロメートルの面積になる群島の国です。 火山噴火によって出来た島が多く、それらは高い山脈を形成していますが、中には砂に覆われたN伏のない島もいつくかあります。 カーボベルデは無人の群島でしたが、1460年にポルトガル王室に従事するイタリアの探検家によって発見されて以来ポルトガルの海外進出の重要な拠点になり、バナナやサトウキビのプランテーションなども作られました。そして奴隷貿易が盛んになると、アフリカ、アメリカ大陸とヨーロッパの三ヶ所への有利なアクセス地点として一時は大変栄えました。 しかし、イギリスの海賊に狙われ、他に安全な貿易ルートが現れると、一気に衰退し、奴隷制度が廃止されると、カーボベルデにいた黒人たちも海外に出稼ぎに出かけるようになり、国内よりも海外に多くの人口をもつ地域になりました。 そして近年まで大した発展もないポルトガルの領土でしたが、永年の地道な独立運動がついに実り1975年に独立しました。さらにこの国が民主化されたのは1991年からで、ここ十数年で近代化に向けての社会成長が始まったまったく新しい国です。 大統領府や主な行政府機関が集められた合同官舎ビル この国の43万人の人口の7割が白人と黒人の混血を占め、残りの大半を黒人が占めています。アジア系としてはこの国の独立を支援した中国との好関係により、中国人の商売人が優遇措置を受けて商いをしています。 対外関係は、ポルトガルを中心としたヨーロッパが伝統的に大きな影響をもっており、またこの国への最大輸出国はポルトガルです。最近ではブラジルから牛肉や鶏肉、米、フェジョンなどの農産物が輸入され、テレビ番組もブラジルのものが人気を呼んでいるところから、ブラジルの文化的影響が強くなっています。 しかし、一方では国際水準で認められる独自の音楽文化があります。黒人社会の苦しみや感情をラテンのバラード的なメロディーで歌い上げるモルナ(Morna)は、セザレアが日本でも紹介し、大好評をうけました。 首都プライアは人口10万人のこじんまりした町です。大統領府から500メートル離れたところに市民に人気の高い市場があり、そしてその横に唯一のショッピングセンターがあり、あとは造りかけの建物が目立つ「ただいま工事中」状態の街です。 プライア市
植民地時代のなごり 日本に西洋文化が入る前にカーボベルデには西洋文化の町が形成されており、ポルトガルが日本や中国との交流を狙って東洋に船団を向わせた時にはカーボベルデを中継所としていました。 しかしこれらの町並みも5世紀にもわたり近代化されることはなく、独立を経てここ10年で近代化に入り、田舎の町にもモダンな建物が見られるようになりました。 しかし一方では、島々の大部分は乾燥した厳しい自然環境で形成されており、車では近寄れないようなところにまで人々は家を建て、畑をつくって暮らしています。 なぜ、この国の人たちは険しい岩山に住み着くようになったのでしょう。
元々カーボベルデはポルトガル王国の奴隷流通の拠点でした。 奴隷の中でも勇気のあるアフリカ人は自由を求めて脱走し、そして険しい岩山の峰に家を建てて、暮らすようになりました。そしてそこは、人間が暮らすにあまりにも厳しい環境でしたがまた、奴隷商人たちも追ってくることはなく、彼らにとってかけがえのない自由がありました。 彼らはそこでたくましく生き延びる術を得ていきました。岩肌にトウモロコシや豆などを植え、ヤギやロバを飼い、そしてあらゆる自然の恵みを無駄なく利用する術を確立させていったのです。そしてここには忍耐強く、自由と家族を大切にする混血民族が育っていきました。 しかし、そこには電気も届かなく、水ははるか谷底から運びあげなければなりませんでした。自由を得るためにカーボベルデの人間が払った大きな犠牲は水を確保することとの戦いでした。
日本政府は、カーボベルデ政府からの地下水開発事業の要請を受けて、地下水井戸のボーリングと給水設備建設の2本立て援助のプロジェクトを計画しました。 そして国際協力機構(JICA)は、地下水開発に関して専門のコンサルタント及び施工業者の技術チームを日本から派遣しました。 そしてなんと、ラテン専門のこの私(このHPのオーナー)もこのプロジェクトに助っ人として参加することになりました。 カーボベルデの農村に水を 「サンチアゴ島地下水開発・給水計画」 |